鷹匠TOP 最後の鷹匠NO.1 最後の鷹匠NO.2 最後の鷹匠NO.3
最後の鷹匠NO.4 最後の鷹匠NO.5 最後の鷹匠NO.6

 昭和57年6月、宇市郎さんと会の事務局長(榎本勲氏)と呼びかけ人代表の作家藤原氏が「鷹匠の伝統保存のためのクマタカ幼鳥捕獲許可願」を持って環境庁へ陳情した。クマタカは勝手に捕獲することのできない国の保護鳥のためである。

 しかし、「鷹匠を育てる会」側の論理と環境庁や一部の自然保護団体の意識の隔離は小さくなかった。さらに文化庁に民俗文化財の指定を要望しても容れられず、環境庁の捕獲許可も下りぬまま、昭和59年1月から特殊鳥類に指定する法改正によって、海外からの輸入も禁じられ、鷹匠と会の切なる願いは閉ざされてしまった。

 そして昭和61年10月5日、最後の鷹匠・武田宇市郎さんの鷹匠廃業宣言とともに、長い間、農と狩りによって生きる伝統習俗・農民鷹匠の灯も消えたのである。(野沢博美写真集「鷹匠」解説・小坂太郎より)
豪雪地帯、屋根の雪下ろしは欠かせない日課だ。 昨日も今日も雪との戦い。鷹小屋の隅にそっと張られていた立春大吉の守り札。
秋田杉の集積作業。 仙道川の土手には、バッケ(フキノトウ)が咲き誇り、春を告げる。
雪解け後の田起こし。春一番の農作業だ。 幼なじみの武田精一郎さんと稲の作柄を語る。
山で採ってきたゼンマイを干す武田さん。 武田さんは水田3町歩を耕作する。「今年も稲のできはよぐネェ。やはり日照不足がたたったかナ」冷害はいつも武田さんの悩みの種だ。長男の為英さんと稲刈りをする。
山形県真室川町の鷹匠故・沓沢朝治さんの遺影。真室川の鷹匠として全国に知られ、武田さんも、一度沓沢家に泊まり、鷹狩り談義に夜を明かしたという。 「伝統ある鷹匠を絶やさないために、クマタカの幼鳥を二羽だけ捕獲させてほしい」。環境庁長官に、クマタカの捕獲を陳情する武田さん。
鷹匠廃業宣言と熊鷹文学碑の除幕式のあった日の夜、女優藤真利子さんとの記念撮影。藤真利子さんの右は、野沢博美写真集「鷹匠」の解説者詩人・小坂太郎氏。 鷹匠廃業宣言。鷹匠を育てる会が発足してから10年後の昭和61年10月5日、武田さんは、「本日をもって鷹匠を廃業することにしました」と涙ながらに廃業宣言。50年間鷹とともに暮らしてきた生活にピリオドを打った。この日、女優の藤真利子さんらの手で武田さんをモデルにした故・藤原審爾先生の小説「熊鷹・青空の美しき狩人」の熊鷹文学碑の除幕式が行われた。
 平成4年7月24日、自宅近くのため池で魚捕りの最中、心臓麻痺で亡くなった。77歳、ついに鷹匠の語り部の灯も消えてしまった。

鷹匠TOP 最後の鷹匠NO.1 最後の鷹匠NO.2 最後の鷹匠NO.3
最後の鷹匠NO.4 最後の鷹匠NO.5 最後の鷹匠NO.6