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 鷹匠、武田宇市郎さんが住む羽後町上仙道桧山集落は、仙道川沿いに点在する集落の最も奥地に位置する。戸数16戸、耕作面積はわずか4反歩。日照時間が短く、冷たい沢水を引いての湿田の収穫は少なく、山峡の村の歴史は、厳しい自然と対峙しながらの貧困と凶作との闘いであった。こうした悪条件が鷹匠という伝統習俗を生み出した。

 秋田県内の山村には、狩猟を生業としたマタギ集落として、阿仁町、田沢湖町、西木村、鳥海町などがある。いずれも農業だけでは生きていけない山間の奥地に位置している。上仙道集落も実はマタギ集落であった。古くから農耕を営みながら、狩猟期の冬と春には山岳を歩いて狩猟に専念していたのである。

 雪の深山を登ってウサギをとるなどという苦行は、武士のやることではない。この周辺の山村農民が、狩りの上手な鷹に目をつけ、相当古い時代、独自に始めたと推測する人もいる。
(全てのコメントは、野沢博美写真集「鷹匠」、「最後の狩人たち」(長田雅彦著、無名舎出版)、各種新聞記事を参照した)
 出羽山地から鳥海山を臨む。出羽富士とも呼ばれ、鷹匠を生んだ羽後町の人たちにとっても山の神、田の神として崇められてきた山である。 空の王者・クマタカ。山岳地帯の深い谷間の森林に生息する。全長70〜80cm、翼を広げると1.5m、体重は2〜4キロ。4キロ先の獲物を見つける視力と、時速200キロの飛行力をもつ空の王者である。
出羽山地に囲まれた海抜400mの高地の村。鷹匠、武田宇市郎さんが住む羽後町上仙道桧山集落。最近は少なくなったが、かつては3〜4mもの雪が積もる豪雪地帯だ。 かつて、村には、肉屋が一軒もなく、冬の間の動物タンパク源はウサギしかなかったから、どんどん売れた。ウサギ一匹の値は一日の日当分といわれた。親子二人で一冬に400〜500匹近くとれ、鷹のエサを差し引いても炭焼きよりはるかによかった。
生まれてまもないヒナから育てたものを巣子という。人に慣れやすいが、獲物のとり方を知らないから訓練が難しい。「実の子以上に可愛がらないと、鷹匠はつとまらない」 鷹匠は愛情をもって鷹を飼いならす。だが、根底にあるのは野生の本能をいかに人間が利用するかという生々しい駆け引きがあることを忘れてはいけない。鷹の体調を知ることは、鷹匠の必須条件。狩りに出ない日は、日に何度も鷹小屋に足を運ぶ。
鷹の調教は、体力ギリギリまでの絶食とエサを与えるタイミングにあるという。夏の間に肥え太った鷹は、秋の絶食と訓練でガリガリに痩せる。エサは野ウサギを襲う体力を維持するためだけに与える。それは我が子を飢えさせるのと同じ気持ちだという。 4,5日絶食させたら死んでしまうという状態に鷹を保つ。鷹匠は、鷹の狩猟本能をいかに発揮させるかが勝負、凡人から見れば神業に近い。
狩りに備え絶食させられている鷹は、一日中「ピィピィ」鳴き続ける。 仙道地区の狩猟碑。鷹匠として活躍した三浦親子を称え、碑に刻まれている恒吉の甥の土田林之助さんが昭和35年に建立したもの。
明治から大正にかけての鷹匠、武田子之吉家に伝わるマタギの家伝「山立根本之巻」と黒漆塗りの盆・小刀。この地区がマタギ集落であったことを裏付ける。 鷹狩りに使った道具。カンジキ、ナタ、ケラ(犬の皮で作った背あて)

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