鹿角市の大日堂舞楽は、約1300年の歴史をもつ県内最古の舞楽である。この舞楽は、小豆沢に鎮座する大日霊貴(おおひるめむち)神社が正月2日に行う祭典に奉納されるもの。この舞楽に参加する能人は、大里、谷内、小豆沢、長嶺の4地区の氏子35人である。長い歴史をもつ素朴な伝統行事、厳かな神事の舞いは、まさに「神々の舞い」と呼ぶにふさわしい。(国重要無形民俗文化財)

 小豆沢には「笛吹田(ふえふきだ)」の屋号が残る。かつては神社から田んぼを分け与えられていたという。そこから「笛吹田」の名がついたものとされる。「八幡田」「鼓田」などの地名も残っており、舞楽が土地の生活と信仰に強く結びついていたことが分かる。

能衆(舞楽を努める人)は、当日に備えて約1ヶ月斎戒沐浴(さいかいもくよく)して身を清める。元旦の丑の刻から耕作祝いが各地区で行われ、2日の夜明けに行列を組み、凍てつく雪道を高張提灯、太鼓、笛、幣束、ササラ、鼓を持って大日堂に集まる。本舞が始まるのは午前十時頃で、境内内は見物客やカメラマンでひしめき合う。

 

 

 

舞は集落ごとに分担されており、ほかの集落の人間が舞うことは許されない。
駒舞(大里集落)・・・シデ笠をかぶり、胸に木製の馬頭をつけ、笛,太鼓の囃子で、7節を舞う。
烏遍舞(うへんまい・長嶺集落)・・・折烏帽子(おりえぼし)にほう面をつけ、太刀を抜き打ち、声明を唱えながら、笛、太鼓の囃子で3節を舞う。
鳥舞(大里集落)・・・だんぶり長者飼育の鶏の舞いといわれ、子ども3人がオス、メス、ヒナの鳥かぶとをつけ、右手に日の丸の扇を持ち、オスは左手に鈴を持って、笛、太鼓の囃子に合わせて3節を舞う。
五大尊舞(谷内集落)・・・だんぶり長者の舞いともいわれ、袴、脚絆、打越をつけ、白梵天と面をつけ、大刀を貫き持って、大博士は左手に鈴を持ち、太鼓と祭文、板子の囃子に合わせて舞われる。
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大日堂舞楽(鹿角市) 「民俗文化を継ぐ」 (秋田魁新報連載記事より)


 鹿角市八幡平地域に1300年前より伝わる重要無形民俗文化財である。八幡平小豆沢(あづきざわ)の「大日霊貫(おおひるめむち)神社」が舞台となる。大里、小豆沢、長嶺、谷内の四集落の人たちによって継承されてきた舞楽は、大森町八沢木・波宇志別(はうしわけ)神社の霜月神楽と並び、神事芸能としての価値が高く評価されている。大日霊貫神社は「大日堂」とも呼ばれる。そこに奉納する舞楽を地元では「ざいどう」あるいは「ざいど」と呼ぶ。少しなまると「じぇどう」になる。その語源は斎燈(紫燈)ともいわれる。

 地元に残る「だんぶり(蜻蛉・とんぼ)長者」伝説によると、この舞楽は大日堂が養老二年(718)に再建された時に、都からきた楽人によって伝えられという。千三百年近くも伝承されてきたとされ、県内では最も古い歴史をもつ舞楽である。

 一月二日、午前八時前、境内に太鼓と笛の音が近づいてくる。まず小豆沢、大里の能衆(舞楽を努める人)たちが境内に姿を現す。五本骨扇に日の丸の紋を染め抜いた藍(あい)染め舞楽装束に身を固め、脚絆(きゃはん)を着けてわらぐつをはいている。間もなく長峰、谷内の能衆たちも笛と太鼓に合わせてやってくる。四つの集落がそろったところで、神主のお払いを受け地蔵舞を舞い始める。舞楽の前奏曲である。

 能衆は全員そろって境内を三周し、大日堂の拝殿(お堂)前に整列する。そして花舞を舞った。右手の鈴を振り鳴らして踊る神子(みこ)舞、「地の神」を礼拝する神名手(かなて)舞を演じる能衆たちの吐く息が白い。拝殿の中では小豆沢の青年数十人による籾(もみ)押しが始まった。これは籾押し(脱穀)の様を表した動きとされる。はちまき姿の若衆が右手中指に五色の紙をまいて「エンヤラヤーソーランサーエ」と勇ましい掛け声をかけながら堂内を踊り跳ねて回る。

 このころになると、境内は多くの見物者で埋まる。本舞にむけての緊張感が高まっていく。花舞を終えた能衆たちは各集落の「龍神幡(はた)」と呼ばれる幟(のぼり)を先頭に、拝殿の縁側を三回回る。そして歓声とともに勢いよく堂内に駆け込み、籾押しを終えて二階で待ち構えている若衆に走りながら幡を放り投げる。観衆に人気の高い「旗揚げ」儀式だ。旗を放るタイミングが少しでも狂うと、若衆が的確に受け取れない。投げる能衆と受け取る若衆の気持ちがぴったり合い、幡が見事に神社に奉納されると、観衆から大きな拍手が起こる。本舞とは別に、この「幡揚げ」が一つのクライマックスになっている。

 いよいよ拝殿での舞楽に移る。年末からこの日のために精進潔斎をしてきた舞人と囃し手たちがさまざまな思いを込めて舞を奉納する。拝殿の広さは九間四方(約二百七十平方㍍)。その中央には十尺四方(約九平方㍍)の舞台がある。能衆十九人全員による神子舞、神名手舞が奉納されると本舞に入る。本舞が始まるのは午前十時頃で、境内内は見物客やカメラマンでひしめき合う。

 本舞は7種類ある。舞は集落ごとに分担されており、ほかの集落の人間が舞うことは許されない。大里が駒(こま)舞、鳥舞、工匠舞の三つ、小豆沢が権現舞と田楽舞、そして長嶺が鳥遍(うへん)舞、谷内が五大尊舞を担当する。踊る順序は時代によって変化しているが、現在は権現舞、駒舞、鳥遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞の順に奉納される。七つの舞が奉納されるまで約二時間を要する。舞人の大部分は大人で、集落ごとに決まりがあり、世襲であることが多い。しかし、鳥舞(大里)は小学生三人によって踊られる。化粧をしてかわいい動作で舞う姿には観衆の暖かいまなざしが注がれる。そのほか、権現舞(小豆沢)の獅子舞の尾を持つのも小学生だ。

 大日堂舞楽が奉納される大日霊貫神社は、JR花輪線の八幡平駅から百㍍足らずの所にある。昭和二十四年の火災で焼失した社殿は三十一年に完工した。かやぶき屋根ではなくなったが、古来の舞楽を奉納するにふさわしい風格を備えている。

 杜の周りを杉並木が囲んでいる。境内にはご神木としてあがめられた「おじ杉」と「おば杉」の2本の巨木が立っていた。伝説では十四世紀に植えられた杉といわれる。おじ杉は数百年前に枯死したもののおば杉は寛文六年(1666)と昭和二十四年の社殿の火災の際にも焼け残った。しかし、木の傷みが激しく、昭和四十一年に切り落とされた。

 『大日堂物語』には「おば杉の皮を煎じてのめば中風が治るとかいうので、明治三十年ごろにはしばしば皮がはぎとられた。」とも記されている。往時には四十㍍の高さを誇ったおば杉の巨大さは、外周十㍍にも及ぶ切り株から忍ぶことができる。切り株は現在お堂で覆われている。

 大日堂舞楽が奉納されるのは養老礼際の一月二日だが、能衆たちにとってはその数週間前から準備が始まる。笛、太鼓、舞の稽古とともに大事なのが心身を清める行である。▽家の周りにしめ縄をはって悪魔が入るのを防ぐ▽他人と火を分け合わなく自炊する▽妻子と床を別にして朝夕に神を拝む▽不幸や出産があった家に行かない▽毎朝沐浴して身を清めるなどが義務づけられている。

 能衆の大部分が農業で生計を立てていた時代はこうした行もしやすかったが、いまはほとんどが職場を持っているため、取り組みにくい面もある。職場にいれば年末には忘年会等さまざまな行事があり、厳密な精進潔斎は難しい。各自精一杯の努力をしている。能衆に事故があったり、悪いことが起こったりすると「行をよくしないからだ」といわれる。もしも十分に行ができなかった場合は、大日堂近くの寺院・吉祥院でふろに入って潔斎したという。また、小豆沢の能衆に不吉なことがあった時などは「別当(大日堂宮司)さんの所に行ってお茶をいただく」というしきたりも残っている。

 小豆沢には「笛吹田(ふえふきだ)」の屋号が残る。かつては神社から田んぼを分け与えられていたという。そこから「笛吹田」の名がついたものとされる。「八幡田」「鼓田」などの地名も残っており、舞楽が土地の生活と信仰に強く結びついていたことが分かる。

 大日堂舞楽は小豆沢の笛を合図に始まる。号令の代わりに笛が次の動作を導いていく。いわば雅楽の進行役である。

 大日堂から最も遠いのは谷内である。養老礼祭当日は谷内から大日堂まで約五㌔の道を歩く。途中の長嶺まで約四十分、永嶺の能衆たちと合流してさらに四十分歩いてようやく大日堂に到着する。

 谷内は「かづの四十二館」のひとつである谷内館があった由緒ある地名。十六世紀半ばすぎの永禄年間には谷内観音堂が焼けたという記録も残っている。その後天正二年に再建されたのが現在の「天照皇御祖神社」だとされる。「神明社」とも呼ばれるこの神社には、五大尊舞の面を保存する収納庫も供えられている。

 谷内地区の舞楽の準備は毎年十二月十六日に始まる。この日、神社に舞手と笛太鼓の受けも持ちや役員が集まり正月の舞楽奉納について協議する。本番にそなえてまずは顔合わせといったところだ。これを「お籠もり」と称する。この日から能衆の家の出入り口にはしめ縄がはられ「行」にはいる。

 そして、年の瀬が迫った二十四日夜、能衆たちが再び神明社に集合した。「御神体」を迎える儀式のためだ。舞楽に使う面などを「御神体」という。能衆の代表三人が、参道の鳥居のわきにある収蔵庫の前で笛を吹き、中の御神体を取り出す。御神体を神明社に移して礼拝する。

 ほぼ一年ぶりの御神体との対面である。六人の舞手は「神様」になる日が近付いていることを実感する。

 

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