「秋田のおなご/なんしてきれいだど/聞くだけやぼだんス/小野小町の生まれ在所/おめはん知らねのゲ」

 「秋田音頭」の地口も小町を秋田美人の原型として誇りと愛情を込めてうたっている。姿かたちの美しさと心の美しさが一つになって、はじめて秋田美人と言える。秋田の米を代表する「あきたこまち」、その美人のルーツ・県南雄勝町の小町伝説に探る。

 

 

 

(左:岩田幸助作品集より、おばこ、1953年 右:大野源二郎作品集より、秋田おばこ、1952年)
 遥か昔、日本海を渡ってこの地へやってきたモンゴル・ツングースの北方アジア系の人々との交流が美人を生んだ要因ではないかと言われている。その美人に、さらに長い時間みがきをかけてきた秋田の風土を見逃してはならない。冬が長く短い日照時間が肌を一層白くし、寒さによる汗腺の退化と比較的高い湿度がうるおいのあるキメ細かな肌をつくった。川の上流部にあるたくさんの温泉から流れ出るのは天然の化粧水といわれ、これを産湯にして育った秋田の女性の肌が白いのも当然と言えよう。

 

 

 

 中国の楊貴妃、エジプトのクレオパトラと並んで世界三大美女と称される小野小町。平安時代を代表する歌人としも名を馳せた伝説の美女は、今なお神秘のベールに包まれている。
 秋田美人の原型を探れば、もちろん小野小町ということになる。晩年、一人岩屋洞(右の写真)にこもった小町が自ら刻んだと言われる木彫り像が左の写真。現在は、寺町・向野寺に安置されている。
二つ森・・・この辺り一帯を八十島と呼び、その中に二つ森はいまも残る。ひさご形の森で大きい方を男森、一方を女森と言い、小町と深草少将の墳墓と伝えられている。 桐木田・・・出羽の郡司小野良実の館のあったところ、福富荘と言われる。小町が産湯を使ったと言われる井戸が今に残る。平安初期と鑑定され貴重な遺跡である。

 

 

 

雄勝町の小町まつりは、古くから芍薬塚(小町塚)で行われる。近年、小町堂も建立され、今でも芍薬の花香る6月第二日曜日に行われている。 芍薬の花。小町に恋し、都から小町の地へやってきた深草少将の求愛に「毎日1本の芍薬を百日にわたって植え続けてくだされば御心に沿いましょう」と伝えた小町。しかし、百本目の芍薬を植えに行く途中、雨で濡れた橋から落ち少将は亡くなってしまうという悲しい伝説を持つ花である。

 

 

 

 紀貫之が「古今和歌集」の序文に「小野小町は、古の衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あわれなるように強がらず。いわば、美き女の悩めるところにあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるらし」と記している。

 小町まつりは、祝詞奏上に始り、巫女舞で神前を清め、小町の魂を慰める謡曲が謡われるうちに、全町より選び抜かれた7人の小町娘が登場し小町堂をめぐる。謡曲が終わると市女笠に身を包んだ小町娘は神前に正座し、七首の和歌を朗読する。歌人・小町をしのぶ古式ゆかしいまつりは、他に類を見ない独特のまつりである。

 

 

    

小町塚には小町を奉る小町堂がある。昭和28年7月旧小野村の青年婦人の有志によって建立されたが、現在の小町堂は平成7年に竣工したもの。

 

 

 

祭りの終わりには、大勢の稚児が可愛らしい化粧で稚児衣装をまとい行列すると、一段と美しさが増す。小町おどり、小町太鼓の奉納、紅白もちまきなどが加わる。