延年チョウクライロ舞は、1200年の伝統をもち、県内でも珍しい延命長寿の舞いである。舞の起源は、天安元年(859年)までさかのぼる。当時、鳥海山に住んでいた悪魔を、慈覚大師が法力で退治。その時、神恩に感謝する御祭りで舞ったのがチョウクライロ舞と言われている。
象潟町小滝地区に伝わる延年チョウクライロ舞は、6月の第二土曜日、金峰神社例大祭で舞われる。明治以前は修験者が舞手だった。舞が終わると参観の人々は、我先にしめ縄や花笠に飾った花束を奪い合い、持ち帰って神前に供える。
金峰神社境内宝物殿。県無形文化財指定のチョウクライロ舞に使用される凌王の面などが陳列されている。 最初は狩衣姿でそれぞれ「陵王」と「納曽利」の面を着けて舞う「九舎の舞」。
子供たちが舞い手となるのは小児の舞、太平楽の舞、祖父祖母の舞の三つ。舞手となる子供たちは小学生、しかも長男に限られる。
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延年チョウクライロ舞(象潟町) 
「民俗文化を継ぐ」 (秋田魁新報連載記事より)

 鳥海ブルーライン入り口まで約2kmのところにある戸数約百五十の小滝地区。国指定名勝・奈曽の白滝があって観光客を集めている。滝のすぐそばに立つ金峰神社に伝わるのが延年チョウクライロ舞である。

 奇妙な響きをもつ「チョウクライロ」。「長(ちょう)久(く)生(ら)容(いろ)」からきていて、長く久しく生きる容(すがた)の意味。延命長寿を願うものとされる。

 チョウクライロ舞は金峰神社例祭日の毎年六月十五日に演じられる。場所は神社と山を隔てた集落側の境内にある一辺約三,六b、約一bの高さの土舞台。作りつけで四方が石垣となっている。閻浮台またはチョウクライロ山とも呼ばれる。

 チョウクライロ舞は@九舎の舞A荒金の舞B小供の舞C太平楽の舞D祖父祖母Eぬぼこの舞F閻浮の舞から成る。子供たちが舞い手となるのは小児の舞、太平楽の舞、祖父祖母の舞の三つ。ほかは大人二人が舞う。笛、太鼓、鉦、歌い手の楽人が付く。舞い手、楽人とも男性。当日はチョウクライロ舞の前に大人たちによる獅子舞、十二段の舞が登場する。

 舞手となる子供たちは六人で、全員が華やかな小児の舞に出演。内四人が太平楽の舞に出演。残る二人が祖父祖母の舞の舞手になる。小児の舞は花笠、またはチョウクライロと呼ばれる。練習は五月二十日過ぎに始まり、ほぼ毎日、会館で午後六時半頃から約二時間続けられる。

 指導に当たるのは、小滝舞楽保存会の・延年チョウクライロ舞部会員が努める。ササラやばちを手にした子供たちは、独特な抑揚がある「チョウクライロ、チョウクライロ」の声に合わせて、足を上げたり体を交差させたりする。やがて四人による太平楽に移った。刀を持った子供たちは、「シュウラ」「ハイローロー」の声に導かれてステップを踏む。ゆっくりだが、足は複雑な軌跡を描く。

 舞手となる子供たちは小学生、しかも長男に限られる。延年チョウクライロ舞の起源は現在、いくつかの縁起から次のようにまとめられている。

 嘉祥二年(八四九年)ごろから、「手長足長」という怪物がすみつき、人々を苦しめていた。天安元年(八五九年)、文徳天皇の勅令を受けた慈覚大師は、小滝村蔵王権現の神社に護摩壇を築いて祈願し、怪物を退治した。

 慈覚大師は蔵王権現近くにあったアララギの大木で観音像を作ったほか、五十三段の石段と土舞台を築き神に感謝する祭りをおこなった。この時の舞がチョウクライロ舞といわれている。

 小滝は修験寺院がたくさんあったところで、舞は信徒たちによって伝承された。明治以降は氏子たちによって受け継がれてきている。「延年(舞)」は寺院芸能の一つ。鎌倉・室町時代に最も栄えた。現在ではわずかに残っているだけで、延年舞は小滝金峰神社に伝わるチョウクライロ舞が県内唯一である。昭和四十一年に県無形民俗文化財に指定された。

 例祭日が雨だった時は、舞は神社本殿で行われる。舞う舞台を決めるのは氏子総代である。雨で会場を移した年はどうも良くないことが起きるといわれている。

 例祭日当日午前八時、幟の立てられた「当番宿」に、祭りに携わる人たちが次々に集まってくる。「当番宿」は、地区の祭典・行事に関する活動の中心となる家。地区に伝わる獅子舞「十二段の舞」の獅子頭が安置される。約百五十戸が上、中、上浜道、浜道の四組に分れ、一年交代で各組から「当番宿」をだす。

 舞手の子供たちは一人も欠けてはならない決まりになっている。出られない子供がでたら、代わりをみつけなければならないのだ。幸い、これまで休んだこどもはいないという。

 母親らの手助けで着替えが始まった。赤脚半をつけ、白足袋を履く。次に襦袢、着物と着ていく。このあたりから大人の手が伸びる。きぬずれの音がして一段とにぎやかになる。衣装・道具は受け継がれている。

 メーキャップは粉おしろいを塗り、口に紅をさす。ピンクの鉢巻きをし、刀を差し、花笠をかぶって出来上がり。

 九時。舞い手や氏子ら約三十人が集まった。笛、太鼓、鉦の音が響き「十二段の舞」が披露された。九時半。御宝頭の巡行が始まる。ホラ貝が吹き鳴らされ、笛や太鼓、鉦の音に包まれた御宝頭を先頭にした人の列が神社を目指す。子供たちの花笠が左右に揺れる。

 集落を抜けた後、山中のきつい石段を上り下りして一行は約三十分後、神社に着いた。午前十一時半前。本殿での例祭を終え、一行は今度は地区の若者八人に担がれたみこしを従えて、来た道の途中にある土舞台に戻った。

 そばにみこしが安置された土舞台の周りには二百人を越す人たちが待ち受けている。「十二段の舞」が舞われ、いよいよ延年チョウクライロ舞の始まりだ。七つの舞で構成される。最初は狩衣姿でそれぞれ「陵王」と「納曽利」の面を着けて舞う「九舎の舞」。

 演奏はなく「タエシトンサ タエシトンサ」なとどいう歯切れの良い唱え文句に合わせて舞われる。扇を二人が一緒に差し上げるなど、シンクロナイズ(同調)した動きがユーモラスにも写る。

 二番目がなぎなたを手に舞われる「荒金の舞」。笛、太鼓、鉦が鳴り出した。これが終われば、子供たちによる「小児の舞」「太平楽の舞」「祖父祖母の舞」と続く。舞台そばで待機する子供たちの表情がこわばっている。仲間同士の声も途絶えた。手にするササラをせわしなく動かす子供もいる。

 いよいよ出番。六人がゆっくり舞台に上がる。観客から「オーッ」というどよめきが起きた。「チョウクライロ」の唱え文句、楽人の演奏に合わせ、足を上げたりする動作を繰り返す。

 続いて、このうちの四人が「太平楽の舞」を演じた。「瓊矛の舞」「閻浮の舞」と続き、四十分ほどで舞はすべて終了した。
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