桃源郷の由来、菅江真澄の絵図と日記、魂の還る場所、陶淵明「桃花源記」、手這坂案内図 |
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| ▲「桃源郷の里」(撮影:佐々木亮太郎、菅江真澄の足跡 写真コンテスト入賞作品:国土交通省 東北地方整備局 秋田河川国道事務所) 当ポータルサイトのタイトル「桃源郷」の名の由来は・・・ 世界自然遺産「白神山地」の南山麓に、八峰町手這坂という茅葺民家4軒の集落がある。この地を訪れた江戸時代の紀行家・菅江真澄は、この村の美しさに感動し「桃源郷」と称えた。ところが、2000年に無人となり荒廃が進んでいた。 2001年、この村に魅せられた人々が集まり「手這坂活用研究会」(代表:大高孝雄、会員150名)を設立。真澄ゆかりの地・桃源郷の再生が行われた。今では、約200年前に菅江真澄が見た風景と同じく、茅葺民家群の周囲に美しい桃の花が咲き乱れる。以来、「秋田の桃源郷」と呼ばれている。 |
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| ▲文化4年(1807年3月28日)、菅江真澄が日記「おがらの滝」に「桃源郷」と評して描いた八峰町手這坂集落の絵図(秋田県立博物館蔵模写本) | |
真澄は、日記だけでなく、「手這坂」の絵図を描き、右上の余白に説明文を書き込んでいる。谷を流れる水沢川の左岸に、桃の花に囲まれた4軒の村が手這坂集落である。 その絵図の説明文には、「水沢川をさかのぼると、家が4、5軒ばかりある村があり、それを手這坂という。誰がいつの世にここに隠れたのであろうか。坂の途中から桃の花の盛りのさまを見ていると、犬の声、鶏の声がかすかに聞こえてくる。そして、滝川の流れる山川の形など中国の武陵桃源の物語に似ている。」と記している。 |
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| また、日記「おがらの滝」には、 「岩子村の梨の花は、山風に雪が降るように散りみだれていた。大久保岱にはいって、村長のところで休憩し、なにかと語り合う。・・・桃の花盛りと聞いて、しばらく行くと手這坂というところにでた。家が4、5軒、川岸の桃の花園にかくれてあった。 この坂の上に立って眺めると、まことに流れをさかのぼって洞のうちに隠れ里を求めたという中国の「桃花源記」の話も、このようであったろうと思われた。 常陸の国にも手這坂というところがあって、たいそう険しく、昔は激しい戦のあったところであるなどと語りながら、ここの夕映えの素晴らしいであろうと、暮れかかった坂をおりて、ある家で水を乞うと、濁酒をヒサゲに入れてすすめてくれた。老いた男女が咳払いなどしているさまをみると、いちだんと仙人めいた心地になった。」 |
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| ▲茅葺民家に住人がいた当時の手這坂集落(平成5年撮影) | |
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| ▲再生された桃源郷・手這坂の田植え 「桃源郷」の再生に捧げた人々の思いは・・・ 以下に掲げる谷口吉光県立大教授の「魂の還る場所」に記されているとおり、「桃源郷・手這坂」は、秋田のグリーン・ツーリズムの原点・聖地とも言えるだろう。 |
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| 魂の還る場所 手這坂再生に込めた山崎さんの思い 秋田県立大学地域連携・研究推進センター教授 谷口 吉光 |
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| ▲左:茅葺民家の玄関に掲げられた表札「桃源郷」 ▲右:桃源郷の再生・手這坂の恩人、故山崎光博さんの記念碑。 故山崎先生は、平成11年に設立された秋田花まるっグリーン・ツーリズム推進協議会の初代アドバイザーとして、秋田型グリーン・ツーリズムの推進にご尽力された。 |
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| 参考その1:「桃源郷」の元祖、陶淵明 | |
| 陶淵明は365年、「天下の濾山」の山裾ののどかな農村地帯に生まれた。やがて何度も官史の職についた。文書係長、教育長、軍司令官の参謀、県令。これらの職は全て長続きはしなかった。彼は、堅苦しい役人生活には耐えられなかった。もう二度と官職にはつくまいと堅く決意して故郷に帰って行くのである。淵明41歳のときであった。 「さあ、帰ろう。田園は荒れようとしているではないか。どうして帰らずにいられよう」 「役人生活とは篭の中の鳥みたいなものだ。そこから逃げ出して、自分はまた自然を友にする自由な生活に帰れた」 彼は心も暮らしも、ともに安らかであるようなユートピアを夢見て田園に帰って行った。だが、その生活は思いのほか労苦に満ちたものだった。 太陽が昇るとともに起きて雑草をむしり、月を背に鋤を担いで帰る百姓仕事に精を出す。こうしてわずかな土地に豆を植えても収穫は思うにまかせず、「家は狭く侘しく、風を防ぐにも、陽をよけるにも役に立たず、着物はボロボロで食器は空っぽ」という有り様であった。 けれども彼は後悔しない。それどころか、このうえなく幸福に思うのである。自然と自由を手に入れた淵明は、田園の中に「桃花源記(桃源郷)」という理想郷を創作、いつも文章を綴っては、ひとり楽しみ、損得など気に掛けず、その生涯を終えた。 ![]() 心が自由であろうとすれば生活は苦しくなり、暮らしを楽にしようと思えば精神は束縛される。この二律背反が世の常である。大多数の人間は、淵明の境地に憧れながら、実際は「暮らしの楽」を選んできた。その道は精神の束縛に耐える道だった。だからこそ、淵明は自分の見果てぬ夢として、人々の心の中に生き続けているのだろう。 心の桃源郷を求めて、みんなで田舎に帰ろう! |
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| 参考その2:陶淵明が創作した「桃花源記(桃源郷)」 | |
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| 晋の太元年間、武陵に漁師を生業とする人がいた。 魚を追って渓谷に沿って行くうちに、ふと桃花の林に出会った。 川の両岸は、一面桃林で、それ以外の木は見当たらない。その何とも言えない芳香がたちこめる桃林のなんと美しいことか。桃の花が満開に咲き誇り、花びらがどこからともなく舞い踊る。 漁師は、今まで見たこともない光景に心を奪われ、先に進むと・・・水源が尽き、すぐそこに山があった。その山には、小さな洞窟があり、ぼんやりと光が射し込んでいるように見えた。船を降り、洞窟に入った。 初めはたいそう狭く、やっと人が通れるくらいであったが、ほどなく目の前がパッと開けた。平らな土地は広々とし、家は整然と並んでいた。立派な田んぼや美しい池、桑や竹のたぐいがあった。 田んぼのあぜ道はきれいに整備され、鶏や犬の鳴声があちこちから聞こえてくる。その中を行き来して耕作する男女・・・老人も子供も、いずれもみなそれぞれに楽しんでいる。 そこに突然現れた漁師に村人は大変驚き、ここまでどうやってきたのかを尋ねた。 村人は彼に聞きたいことがたくさんあったから、家まで招き入れ、酒と鶏の料理でもてなした。 漁師が来たことを知った村人たちは、みな漁師を訪ねては質問をした。 村人は言う。 「先祖が秦の時代の戦乱を避け、家族や村人をひきつれて、この人里離れた土地に来て、二度とこの地から出なかった。そして外部の人々と隔たってしまった。」 漁師に問う。 「今はどんな世になっているのですか。」 なんと漢があったことを知らない、ましてや魏・晋のことも知らない。 漁師は、村人のために詳しく自分の聞き知っていることを話すと、嘆息したり驚いたりした。 数日間とどまって辞去した。 村人言う。「ここでのことは、他の人に話すに及びません。」 漁師は村を出て、元来た道の至る所に目印を付けながら帰った。 帰るとすぐに郡の行政長官を訪ね、漁師が見た不思議な世界のことを話した。すると行政長官はすぐさま人を送り、その漁師の言う場所を探そうとした。けれど漁師が付けたという目印は見つからなかった。 後に南陽の賢い学者がこれを聞いて、自ら探索に臨んだ。けれど結局見つからず、ほどなくして病気になって死んでしまった。それ以来、その場所を探そうとする者はいなくなった。 |
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| 八峰町峰浜手這坂案内図(カシミール3Dで作成) | |
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| 能代市から国道101号線を北に向かう。道の駅「みねはま」を過ぎ、水沢集落の終点右手に「水沢ダム」の看板がある。ここで右折し、水沢ダム方向に向かう。岩子、大久保岱を過ぎ、急な坂を右に下ると桃源郷・手這坂である。
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| 参 考 文 献 | |