なまはげ2003-1 なまはげ2003-2


奇習「なまはげ」の謎を考える
 日本海に突き出した男鹿半島。断崖絶壁が連なり、海抜ゼロメートルから男鹿三山(本山、真山、毛無山)へと一気に競り上がっている。南の西目町付近から男鹿半島を眺めれば、島というよりは海に山が突き出したように見える特異な景観に驚かされる。この特異な地形を見れば、奇習「なまはげ」が生まれたのも頷ける。しかし、今なお「なまはげ」には謎が多い。なまはげ伝説には諸説あるが定説はない。男鹿市では約60集落でなまはげ習俗が伝承されているが、なぜ鬼の面は60種類もあるのか。真山地区のなまはげには、角がない。それはなぜなのか。なまはげが神だとすれば、なぜ邪悪な鬼の形相をしているのか・・・

 その謎を探るため、なまはげ伝説のルーツとされる999の石段、5匹のなまはげを祀っている赤神神社五社堂、なまはげの全てを体感できるなまはげ館を訪ね、なまはげ習俗講演会にも参加してみた。
 男鹿市門前、石段の登り口にある赤神神社仁王門。この奥右手に山伏信仰の名残りをとどめる長楽寺がある。
 999の石段・・・鬼が赤神神社まで999の石段を一夜にして築いたという伝説を持っている。急な石段の両脇には、日本海の強風に耐えてきたブナ林に覆われている。石段を一つ一つ登るたびに山岳信仰の匂いが漂ってきた。振り返れば、遙か眼下に日本海の荒海が見える。
 999の石段伝説・・・昔、漢の武帝が5匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。コウモリは5匹の鬼に変わった。武帝は、5匹の鬼たちを家来として使ったが、一年に一度正月を休ませた。鬼たちは大喜びして里へ降り、畑作物や家畜を奪って大暴れし、しまいには娘までさらっていくようになった。

 困ってしまった村人は、鬼に賭けを申し入れる。「あの山のてっぺんまで、一夜のうちに千段の石段を築けば、一年に一人ずつ娘を差し上げる。だが、それができなければ、二度と里へ降りて来ないことにしたいがどうか」と。
 鬼たちは、日の暮れるのを待って、さっそく石段造りに取り掛かった。遠く離れた寒風山から空を飛ぶようにして石を運び、あれよあれよという間に石段を築いていった。これに驚いた村人は、物まねのうまいアマノジャクに鶏の鳴き声を頼んだ。

 あと一段というところで、アマノジャクが「コケコッコー」と叫んだ。鬼たちは一番鶏が鳴いたことにびっくり、約束どおり山の奥深くへと立ち去って行った。鬼が来なくなって、何か寂しい気持ちになった村人たちは、年に一度、正月15日には、鬼の真似をして村中を回り歩くようになった。これがなまはげの始まりだという。
 五社堂入り口にある山門  巨木が林立する空間に「御手洗の池」がある。流れは中島を囲むように360度つながっている不思議な池だ。
 江戸時代の紀行家・菅江真澄の道「姿見の井戸」・・・男鹿遊覧記によると「坂をはるかに登ると、姿見の井戸がある。この水鏡が曇り、真個の形が写らない人は、命が長くないと占われる。」と記されている。
 999の石段を登りきる手前で、杉の巨木の間から忽然と五社堂が姿を現した。
 赤神神社五社堂全景・・・国指定重要有形文化財。平成11年から平成13年に修理作業が行われた。五社堂の脇を青い防風ネットで保護されていたが、ちょっと景観を損ねているのが残念だった。祀られている5匹のなまはげは、両親と子供3人だという。
 密集していた宗教施設(門前)・・・火山島であった男鹿には、男鹿三山と呼ばれる本山、真山、毛無山が聳え立っているが、平安時代から山岳信仰の修験場であった。江戸時代には、10カ寺50坊もあって大いに賑わった所が現在の門前である。男鹿独特の地形と気候風土、数奇な歴史文化に触れると、宗教的な環境が極めて高いことがわかる。奇習「なまはげ」は、こうした宗教的環境と風土から生まれたと言われている。

 県内の農山村地域には、山の神・田の神信仰が生きている。男鹿地域では、神は海のかなたからやってきて山の神になったのではないかと考えられている。その山の神あるいは修験者と「なまはげ」は深い関係があるという。
 万体仏と田の神・・・真山の麓にあるお堂には、壁や天上などに1万3千体ほどの木彫仏が整然と並べられている。そのお堂の右手に「田ノ神大神」という石碑が建立されている。これは真山山麓に、山の神と田の神信仰が生きていることを示している。真山のなまはげだけが、なぜ角がないのだろうか・・・なまはげ館の説明によると、真山のなまはげは、海からやってきた鬼ではなく、修験者の顔をイメージしたものだという。
 2月9日、なまはげ館では、なまはげ文化に詳しい鎌田幸男教授の「生きている男鹿嶋のナマハゲ」と題した講演が開催された。約1時間ほどの講演だったが、なまはげの謎を解く興味深い内容だった。男鹿周辺に伝わるなまはげは、2匹と3匹の二つのケースがある。2匹の場合は五社堂に祭られている5匹のうちの親で赤が男、青が女。3匹の場合は、鬼の子供3人であるという。なまはげのもつナタは、怠け者の生身を剥ぐためのもので、桶は剥いだ生身を入れるためのものだという。

 菅江真澄の描いたなまはげには、腰に小箱を下げていて「コロコロ」音がするという。その小箱の中には一体何が入っているのだろうか。3人の子供の鬼は、両親を供養するために親の歯を小箱に入れていたのではないか。修験者は生産手段を持っていなかった。里人の人たちは、天候に左右される農業、漁業を営んでいたから山を「お山」と呼び山の神として豊作、豊漁を祈った。修験者の求めた食料と里人の信仰がお互いの交流を生み、やがて奇習「なまはげ」へと結びついたのではないか。男鹿のなまはげを、単に特異な地形や自然からとらえるのではなく、男鹿独特の風土から探る必要性を力説した。
 日本海に突き出した男鹿半島は、海と八郎潟に隔絶された島である。この周辺を調査した結果、なまはげ文化が濃密に形成されている地域は、若美町、男鹿市、天王町で、演題にある「男鹿嶋」とは、この三つの地域をさしているという。

 厳しい自然、過酷な労働は、時にくじけそうになることも度々だったが、その心を奮い立たせるものが実は奇習「なまはげ」だった。なまはげの行事が、地域外の人たちをアルバイトとして雇い、単なる観光と化していたとすれば「生きているとは言わない」。幼い頃、失神するほど怖かった子供たちが、やがて大人になり、今度は鬼の形相をしたなまはげに化ける。なまはげの面を被ると、誰もが身震いするほどの感覚を覚えるという。これが演題の今なお「生きている男鹿嶋のなまはげ」の意味だと解説してくれた。
 鎌田教授は、なまはげの正体を探るには、江戸時代の紀行家・菅江真澄の記録が大変参考になるとも語った。菅江真澄は、男鹿の特異な民俗や歴史、自然への興味が強かったらしく、男鹿半島に3回も足を運んでいる。真澄が見聞した風俗や祭り、行事は「男鹿の金風」など5つの紀行文に残されている。なまはげの習俗について真澄は次のように書き記している。

 「ナマハギは、寒さにたえず火にあたりたるスネにセキモン(赤斑)のかたつけるをいふなり。このヒカタを春は鬼が来て剥ぎさるちふ諺のあるにたとへて、しか鬼のさまして出ありく生身剥(ナマミハギ)ちふもの也」・・・なまはげは、冬の囲炉裏に長く暖をとっていると、手足に火型・火斑ができるが、この火型を鬼が包丁で剥ぐことに語源があると記されている。
 村落共同体維持説・・・なまはげは、厳しい自然と対峙しながら共に助け合い、支え合って生きる共同社会の秩序を維持するために生まれた。村落社会の新しい構成員・子供、初嫁、初婿に対して、共同社会の権威を示して服従を強制したのである。なまはげに服従したものは、共同体の一員として認め、祝福を与えるというものであった。
 なまはげ面彫り師・・・入道崎の石川康行さんは、なまはげの扮装で観光客と記念撮影を撮ることを思い付き、その面を自分で彫ったのがきっかけで、なまはげ面を彫り始めたという。今では奇習「なまはげ」の面の制作はもちろん、民芸品として観光客の評判も高い。
 人気が高い「なまはげ変身コーナー」・・・変身しているのは若い女性二人。記念撮影は、まず面を外して1枚、次に面をつけてなまはげに完全変身して1枚、計2枚を撮影するのが一般的。
 丸木舟(国重要有形文化財)・・・男鹿の海は奇岩怪石、岩礁地帯が続いている。一本の杉の原木をえぐって造る丸木舟は、岩に当たっても壊れない。潮や風に流されず、波渡りもよく、転覆の恐れもない。耐用年数は何と100年と長い。日本海の荒海に突き出した岩礁地帯で漁業や運搬に重宝された。原木は、真山や本山の樹齢300年以上のものを使っていた。これもまた男鹿特有の自然と風土から生まれた傑作と言えるだろう。
 なまはげ勢揃い・・・市内約60集落で行われているなまはげの面・衣装を実物展示されている。同じなまはげの習俗とは言っても、60種類の面と衣装、どれ一つとして同じものはない。それはなぜなのだろうか。
 各集落に伝わる個性的ななまはげの数々・・・三方を海、一方を八郎潟に囲まれた男鹿半島は、海、山、潟、湖沼、草原、田畑、河川といった自然の多様性、歴史と風土の多様性に富んでいることがわかる。その多様性が「なまはげ文化」の多様性を生んだといえるのではないか。

 例えば面の材料がザルを基盤にしたもの、杉の木で彫刻したもの、ケヤキの皮を剥いで面状にしたもの・・・髪やヒゲには、馬の毛、海藻のモク、麻糸を使うなど様々だが、それぞれ地域特有の素材を活かして作られているのが分かる。
 なまはげ伝説の代表的なものは三つ。漢の武帝が5匹の鬼を従えてやってきた漢の武帝説や、漢人、ロシア人、スペイン人などの異邦人漂流説、真山・本山の修験者説がある。三方の海沿いに点在する集落は、漢の武帝説や異邦人漂流説、潟や山麓沿いの集落は修験者説と別れるのも当然のことではないだろうか。遙か海のかなたからやってきた鬼と山から下りてきた鬼とでは、なまはげの面も大きく異なるのも当然のことだと思う。60集落に60種類のなまはげが厳然として存在している事実は、どれが定説かを追求し、一つに統一すべきものではなく、なまはげ文化の多様性こそ尊重すべきだと思う。
 男鹿真山伝承館・・・なまはげ館の隣に、男鹿地方の典型的な曲家の茅葺き民家がある。ここでは、なまはげについての説明や実際になまはげ体験ができる「なまはげ習俗学習講座」を行っている。(開館期間:3月20日~11月3日、冬季は休館)
参 考 文 献
「男鹿ガイドブック」(無明舎出版)
「男鹿のなまはげ」(男鹿のなまはげ保存伝承促進委員会)
「男鹿市史 上巻」(男鹿市)
各種パンフレット

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