食の民俗その1     食の民俗その2


イワナ、カジカ、サクラマスとヤマメ、アユ、サケ、ウグイ、ヤツメ、ドジョウ、コイ、ギンブナ、ナマズ、
タニシ、カラスガイ、シラウオ、ワカサギ、蒸しエビ、イサジャ、シロウオ、幻の魚・クニマス、番外:ハタハタ
 秋田の山村では、積雪が多く麦類などの冬作はできない。こうした村々では、アワや冷水がかりのヒエ栽培を行い、山菜、きのこなどの山の幸に依存した食文化が発達した。また、数多くのマタギ集落にみられるように、山の動物や川漁への依存度が高いのも秋田の食文化の大きな特徴と言える。
 また、農業の合間に、春は山菜採り、夏は川漁、秋はキノコ採りに精を出すのが一般的なパターンだった。これは、季節を味わう、あるいは自然の幸を味わう、という側面もあったが、むしろ食の素材が生産できない冬を乗り越えるために不可欠な食糧でもあった。それがために、秋になると、山野を駆け巡り、採取した自然の恵みを保存・加工する知恵と技術には、雪国ならではの個性があった。
 秋田の河川に生息する魚で古くから食用とされてきたのは、イワナ、ヤマメ、アユ、サクラマス、川マス、カジカ、サケ、ウグイ、八つ目ウナギ、サワガニ、シラウオ、シロウオなど。平地の田んぼや堰、沼に生息する魚貝類では、ドジョウ、コイ、フナ、ナマズ、ワカサギ、タニシ、カラスガイなど。秋田は、何と言っても淡水魚の宝庫で、獲る楽しみ、食べる楽しみに溢れている。
山村の暮らしに密着した川魚の筆頭・・・イワナ(岩魚)
 イワナは、人里離れた深山幽谷に棲み、「谷の精霊」とか「渓流の王者」「幻の怪魚」「神秘の美魚」といった様々な形容詞で飾られることが多い。全国各地に数々の伝説を持つ山魚・イワナは、常に神秘的なイメージがつきまとう。しかし、秋田の山村では、度重なる移植放流の歴史や「盆魚=イワナ」の風習、イワナ職漁師など、山村の暮らしに最も密着した川魚の筆頭であった。
▲イワナの胃袋から同じ小イワナが出てきた貴重な写真 ▲川ネズミを丸呑みにしていたイワナ
 昭和15年に発刊された「秋田郡邑魚譚」(武藤鉄城著)の一部を抜粋する。

▼イワナの共喰い、アダ喰い・・・共喰いといっても、勢力を争うて喰いつくものではなく、真実に飢えてかじりつくものらしい。人影を見て逃げた大きな岩魚が穴へ入って見ているところへ、浅いほうから小さな岩魚が逃げ込むと、頭からかぶりついて、躯体二つに頭一つの怪魚のような格好して水底を動き廻ることがある。

 ・・・岩魚のアダ喰いは、誰でも知っている。夏の暑熱の頃など、小蛇が渓流を渡り、流れまいと横ふりしているそのアゴ筋にかぶりつく。そのような凶暴性から、岩魚の棲む淵には、他の魚は居ないと言われる。

 春が来れば、去秋の事情とは反対になる。即ち岩魚は育ち次第、その場所が窮屈になるので、雪代水が溢るを幸い下って、適当な淵を見つけて棲む。それ故、遡上の場合とは反対に、上に小さいものが残り、下の大きい淵ほど大きなものが頑張っていることになる。・・・
▼生保内川の岩魚・・・生保内川に棲む岩魚は、その沢目によってヒレが目立つほど赤く、他と区別できるものがある。中生保内の口から駒ケ岳に登攀すると間もなく十丈の滝がある。その滝上に魚は絶対生息しなかったが、よほど前に村の某が岩魚を持って上って放流した。それが増えて、現在は相当いるという。

▼堀内沢・・・熊の生息地として有名で、その奥約900mほど高所に角館町の有名なマタギ犬飼養家であり、狩猟家である宮本彰一郎氏のマタギ小屋があるが、昭和10年、同氏はその小屋の前の渓流まで遡ってきた一尺二寸の鱒を突いたことがある。
▼テンカラ・・・岩魚は同類相食むもので、小さいものは大きいものに喰われてしまう。これをテンカラで釣る秘法に、上瀬釣り、下瀬釣り、淵釣りの三つがある。岩魚のうちには、必ず王がいる。それは大きな石の上に頑張っている。もしその王を先に釣ると、小さいものは皆逃げてしまう。上ノ瀬に王あらば、下ノ瀬から釣り始める。反対に下ノ瀬に王あれば、上瀬から釣る。そして最後に王を釣らねばならない。

▼岩魚釣り・・・竿は二間半くらい、糸は竿より短くして餌は川虫、クモなどである。上から釣ると敏感で人影に驚いて逃げる故、下流から釣って行くのである。それは岩魚もヤマベも、平常上を向いて泳ぎ、もっぱら虫を狙っているからである。

▼根子部落の岩魚・・・ネッコは有名なマタギ部落である。・・・岩魚を手づかみにして獲ることを、ウチカウという。一尺以上もあるものを、手を入れ、エラに指を突っ込んで引き出す豪快なものである。・・・マタギは豊猟な人を「エビス利く」というが、魚獲りの場合でも、同じ意に使用する。
 鹿角地方の黒沢川や米代川などでは「イワナ、カジカ、ドジョウ、ナマズ、カニなどがとれるので、これを上手にとり、食事に利用する。・・・とってきたイワナは、ぴちぴちして鮮度のいいうちに一匹づつ姿よく串にさして焼き、20匹ぐらい箱に並べて、粉炭と一緒に背にのせて花輪へ運ぶ。値段は魚の長さ一寸いくらで取引され、おおよそ一回で70銭くらい手に入る。期間は5月から8月のお盆すぎまでで、月に5、6回は出掛ける。

 ・・・たいていの家では、日中、川遊びで子どもたちのとった川ガニ、イワナ、カジカを焼いて、味噌貝焼きにして食べるくらいである。数が不足で家族全員の口に入らない時は、焼いたものをベンケイに刺しておき、みんなにいきわたる量をためてから食べるように気を配る。大漁で余った時も、ベンケイに刺しておく。」「聞き書 秋田の食事」(農文協)
▼イワナ職漁師・・・イワナは、美味な魚だけに、温泉や旅館、病院などで高く買ってくれたので、山人の貴重な現金収入になった。こうしてイワナ釣りを生業とする職漁師も数多く輩出した。また一般の農家では、親たちが農作業に忙しく川漁をする暇がなかった。そこで子どもたちが川遊びでとってきた川魚は、家族全員の大事なおかずになった。

イワナの「鵜追い」(追込み漁)(田沢湖町田沢)・・・晩春から梅雨にかけて行われたものだが、本物の鵜を使うのではなく、鵜に見せかけ追い込む漁法。4mほどの竿の先を尖らせ、約50センチほど下にカラスの羽あるいはイタチの毛皮、ブドウの皮などを巻き付け、鵜の体にみせる。その下60~80センチほど離して同様のものをつける。その竿を持ち、静かに淵に入り、水中を突き回す。イワナは鵜と思い、逃れようと下流の瀬に逃げる。その下流でカジカ網を張って待ち、すくいとる。
▲写真左:渇水の小沢の魚止めで、岩穴に隠れたイワナを河原に転がっていた棒切れで突き、穴から出てきたイワナを川虫採り用の網で捕獲したイワナ。

イワナの手取り・・・「小国の民俗風土記」に記されていた概要を記す。晩秋になると、イワナは産卵のために小沢に上る。イワナは、産卵する小さな淵をきれいにする習性があるので、ベテランならすぐに分かる。もし水量が多ければ、半分くらい脇を流れるようにすればよい。イワナの隠れていそうな岩を見つけ、手を突っ込んでつかまえる。

 確実にいる魚なので、失敗は少ない。しかし、相手は生き物、必死で逃げるので、つかみ損ねる場合もある。そんな時は、柴を一本折り、その枝をはらって、岩穴を滅多やたらと突きまくる。そうすると、イワナも苦しくなって岩から出て、下流に下る。そこに網をかけて置きすくいあげる。原始的ではあるが、時期さえあえば、半日で20匹くらいはつかまえられる。
▼イワナ移植放流の記録
 「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫著、農山漁村文化協会)には、
 マタギが移植や放流に積極的であった事例には事欠かない。秋田マタギの故郷、阿仁町には「小沢を持っている」という言葉があるが、これは魚止めの滝上に人知れずイワナを放流し、隠し沢とも言うべき自前の漁場をもつことをかく称したもので、一人のマタギが2~3本は持っていたと言われる。

 また、かつて岩手県葛根田川中流の鳥越ノ滝より上流にイワナはいなかった。
 武藤鉄城著「秋田郡邑魚譚」には、昭和16年の仙北郡田沢村の項に、移植にまつわる話が記録されている。

 時代は判然せぬも、毎年田沢村からマンダ(シナの木の皮)を剥ぐに行く人々が、魚のいない川もオカシイものだと思って、ある年ワッパ(飯を入れる曲げ物)にイワナの子を入れて行って放流した。それが年を経過するにつれて、殖えに殖えても、あまりに上にも下にも行けぬ地形故に、ほとんどウジョウジョするくらいになった。
▼イワナ移植放流の記録その2
 実写版映画「釣りキチ三平」で「夜鳴き谷の怪物」を釣るクライマックスシーンが撮影された法体の滝・・・その上流・玉田川には、かつて魚は生息していなかった。一体誰が放流したのだろうか・・・「鳥海町史」の第三節「イワナの放流」の項にその記録がある。

 鳥海の山すその秘境を流れる玉田川にイワナを放流し、養殖を図ったのは、かつてマタギ集落で有名な百宅(ももやけ)の佐藤浅治である。佐藤浅治は1850年、百宅に生まれ、明治36年7月5日に没している・・・享年53歳。

 釣りキチだった彼は、百宅川で釣ったイワナを「生簀(いけす)」に蓄えて、手頃な数になると、法体の滝上の玉田川に放流・・・その数は十数回に及んだ。今まで魚一匹生息していなかった清流にイワナが増えに増え、時には川に入った人の足にからみつくほどになったという。

 明治35年、学校が新築移転された祝いに、このイワナが料理され、村人たちが喜びに浸ったと伝えられている。佐藤浅治の功績碑は、手代事業所の参道のそばにある。明治37年8月、彼の没後、村人がその功績を讃え、感謝の意を込めて建立したという。
▲イワナの燻製 ▲イワナのコウベ酒
イワナコウベ酒(鳥海山麓)・・・焼いたイワナの頭をタイのコウベ酒と同じ方法で、イワナのコウベ酒を飲んだ。酒の味に清流イワナのエキスが溶け込み絶品となる。

イワナの笹焼き(森吉町)・・・渓流でイワナを釣り、その場で持参した味噌をイワナに塗り、何枚も笹の葉でくるみ、焚き火で焼いて食べる。笹の葉の香りがイワナにしみ込んで風味満点の即席料理。他に石焼き、塩焼き、刺身、燻製、かやき、味噌汁、腹わた漬けなど。

イワナと百宅そば(鳥海村)・・・マタギの集落に伝わる百宅(ももやけ)そば、山麓の「霧下そば」と呼ばれている。いつも霧がそば畑に下りるから、特に美味い。そばの実を木臼に入れて棒でよくつき、石臼を引いてそば粉を作った。その百宅そばのダシに、春から秋は、渓流で獲れるイワナを焼いて干したものを使った。冬は、山鳥、山ウサギ、キジなどの肉を串に刺して焼いた鳥獣の肉からダシ汁を作った。

クサギ・・・魚はイワナぐらいしかなかった奥地・田沢湖町玉川では、海の魚がほとんど手に入らなかった。稀に塩物が村にくると、身だけを食べ、魚の骨はきれいに残した。この骨に塩を混ぜ、刻んで骨タタキにした。タタクとき、青いサヤのついたままのシソの実を入れ、よく混ぜてからたたいた。こうすればシソの香りで魚の臭みが消えるという。これを熱いご飯か、湯づめにして食べた。これを「クサギ」と呼んだ。食べることの可能な限界ギリギリまで美味しく調理し、カルシウムを補給した。
▼アメ流し・・・秋田では、毒流し漁を「アメ流し」と呼んだ。毒流しと聞けば、何やら少人数でとる密漁みたいな印象を受けるが、昔の記録をみれば、村の行事のごとく共同で行われていた。「山村の八十年 マタギの里」(越前谷武左衛門著)には「アメ流し」について詳しく記されているので一部抜粋する。

「大正4年の夏、・・・4部落の親方達が相談しアメ流しをすることになった。・・・マスヤスを担いで大勢で歩いて行き、大和淵の下の浅瀬でナダラを足で踏んでトコロの汁を揉み出した。百人以上もの人がマスヤスを突っ張ってトコロを踏んでいるのは壮観だった。

 トコロの汁で弱って岸に寄ってくるのはマスばかりではない。アユやハヤ・ヤマメ・カジカ等を持った人は小魚に目もくれず、専らマスを突き刺して上げる度に歓声が上がった。マスを見つけて突こうと身構えた時、足が滑って失敗したり、一匹を何人もが突いて言い争いになることもあった。・・・

 アメ流しは、トコロの根のほかにも山椒の木の皮でもやった。皮を乾かして砕き、粉を作る。木灰を混ぜて川に流せばよくきいた。子どもの頃、夜に裏の畑で火を焚いて大人たちが4、5人で山椒の粉作りをしたものである。私が15歳のころ、この山椒のアメ流しに行った。

 ・・・東の方と思われる沢で、山椒の粉と木灰を等量に入れた木綿袋を水に入れて揉んだ。濃い茶色の汁が沢に流れ、イワナが弱って出てきた。なかには40センチ程もある大きなのが、苦しがって夢中で水面を下って来て、陸へ跳ねてバタバタしているのもあったし、次から次と出てサデ網ですくうのが忙しかった。・・・魚がいなくなるとまた袋を揉む。また利いて出てくる。それを繰り返した。

 ・・・アメ流しの遊びもあった。子供等が学校帰りの途中、萱草沢でよくやった。そこからクルミの葉をとってきて、沢の岸で石でよく叩き潰すと、赤茶色の汁が出る。これを流すとカジカが弱って岸に寄ってくるのでつかまえるのである。小柴を鍵のように作って、大きいのから順にエラに通して持ち帰った」

アメ流しは、盛夏の7~8月頃、晴天が続き沢の水が少なくなった頃に行われた。毒流しとは言っても、現代のような青酸カリや農薬といった劇薬とはまるで違う。自然から採取した材料だけに毒性が弱く、一時的に神経麻痺を起こすが、ある程度時間がたつと魚は蘇生した。だからできるだけ水量の少ない渇水期を狙い、しかも小さな沢で行わないと効き目がなかった。この他に、カジカと同じ夜突きも盛んに行われた。もちろん現在では、アメ流し、夜突きとも禁止されている。
▼玉川部落のイワナ民俗誌・・・「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)には、秋田県仙北郡玉川部落の「イワナ」の項に、昭和初期のイワナ民俗誌が記されている。

 玉川部落の人たちは魚といっても、イワナだけが日常生活に最も大切なタンパク源で、これらの数々の支流をイワナの宝庫としていた。昭和初めまでは、玉川(17戸)に行くには・・・険しい山道を越えて20キロ。さらに西木村からも、サルも通わないような尻高峠を踏破して15キロ、やっとたどり着く。全く俗世を離れた別世界の部落だった。

 昭和4年・・・玉川部落のごちそうは、玉川上支流でとれたイワナを主としたものだった。1.5m四方もある囲炉裏の焚き火で・・・一つのベンケイには、30センチから50センチまでのイワナを串にして2、30尾。3、4つのベンケイに、数十尾以上のイワナ串が見事に刺されてあり、焚き火の燻製で、イワナが黒く底光りし、ギラギラ天井に輝いていた。

 この山奥でこれだけだと思ったとおり、朝からイワナ攻めで、イワナと親指ほど太く柔らかい大深ゼンマイの味噌汁、イワナの燻製の焼き魚、イワナのいい寿司、イワナの味噌漬け、ウド、ミズなど山菜を入れたイワナかやき、干して保存してあったシイタケ、マイタケのキノコ類を入れたイワナの吸い物。

 さらにイワナだしの干しうどんなど、全て豪華なイワナ料理であった。イワナのなかみは真っ白く柔らかで、海の白身の魚に似ていて、美味であった。それだけに玉川流のイワナの住む沢々は、当時の重要な食糧源で、ナメなど毒を流して、互いにイワナを大量にとることは絶対にしなかったらしい。刺し網か、置き釣りなどでとった。・・・
▼玉川部落の盆魚・・・玉川の人たちはイワナは正月や盆のごちそう魚になるので、盆を前にして、イワナのことを別名「盆魚」と呼んで、必ずグループをつくり、2、3日も沢々に野宿し、夜釣りのイワナとりに出掛けることが、大切な行事であった。

 ・・・イワナ釣りたちは、雑魚箱というものを各人が背負った。・・・フタがあってその下にナカゴがある。ナカゴには味噌、味噌漬けなどの山で食べる副食物、それに塩蔵用の塩などを入れて持っていった。野宿しながら、置きハリ、火ぶり、渓流釣りなどとったイワナを、腹ワタをとり、その日その日、新しいうちに塩蔵した。この頃は各沢は夏の渇水期なので、豊漁なときで、野宿1、2泊、とれない時でも3、4日の釣りで、塩漬けのイワナが雑魚箱一杯になった。それを盆魚と称し、家でさまざまなイワナ料理をして食べたのである。

 ・・・野営の場所として、沢の中州を選ぶ。このような所には流木がたくさんあり、これを焚き木の材料として山積みにし、大かがり火を一晩中たき続ける。中州は、四方がよく見渡せるので、クマなどの野獣も近寄れない安全地帯である。

 ・・・置き針、刺し網、渓流釣りを行いながら、沢を移動してゆく。食糧は味噌と米だけで十分で、とったイワナを焼いたり、煮たりして食べる。味噌や塩蔵用の塩を持っているので、いろいろな山菜をとって食べるのだ。焚き火でフキを焼いて沢の流れ水に入れておくと、そのまま味噌をつけても食べられるし、イワナ汁に入れても、焼きフキは美味だ。
▼阿仁・鈴木正雄さんが語る川漁 (「マタギ 森と狩人の記録」田口 洋美著、慶友社)・・・川では主にイワナ、ヤマメ、カジカですな。・・・昔、夏の暑い盛りにヤスなんか持っていってよくマスを突いてきたもんです。カジカなんかも獲ってくると、焼いて長い竹の串にいくつも刺して、ワラで作った弁慶に何本も刺しておいて、カラカラになるまで乾燥させて汁なんかの出汁にしたもんです。煮干しの代わりですな。

 昔の人方はあれでしょう、川で魚獲ったり、山で獣獲ったりすれば、それを燻製にしたり、干したり、塩漬けにしたりして保存したもんです。昔は冷蔵庫なんていうものがありませんでしたから、どうしても保存するとなればそういう方法であったすな。
多様なイワナ料理
▲塩焼き ▲刺身 ▲卵と白子の酢醤油和え
▲タタキ風刺身 ▲から揚げ ▲胃袋のから揚げ
▲骨酒 ▲蒲焼き
▲頭と骨の燻製(骨酒用) ▲燻製 ▲岩魚寿司

▲川魚料理&山菜料理が自慢の神室亭の定食
・イワナの刺身、ヤマメの塩焼き、味噌田楽、山菜のおひたしなど
・神室亭住所:湯沢市秋ノ宮字太田8、電話:0183-56-2738
初夏の風物詩・・・カジカ突き
 川の中流から上流域に生息、清流で石の多い瀬を好む。水生昆虫などの小動物、小魚などを食べる動物食性。産卵期は3~6月。かつて山村では、カンテラを提げて夜の川を歩きカジカを突く遊びは、初夏の風物詩だった。渓流には、もう一種カジカガエルが生息している。鹿のような声で鳴くことから「河鹿」と書く。一夫多妻制で、産卵後に卵を守る習性がある。
▲清流水沢川のカジカ突き・・・流れの速い瀬でカジカを見つけるには、伝統的なガラス箱は必携品。通常は石の下に隠れているが、生息数が多いと、石の上にカジカが遊んでいる。

 カジカは夜になると、岸に寄ってきて眠る。川の瀬にガラスをはめた舟型の箱メガネを浮かべ、カンテラの光で川底を照らし、石底に棲むカジカを探してヤスで突く。これを「夜突き」とか「ヨカジカ突き」と呼んだ。中には、カンテラを持たず、カジカ用の網ですくう人もいた。腰から下が水に濡れるが、一晩に一升も獲れたから皆病み付きになった。しかし、近年は夜突きが禁止になっても、カジカの姿がめっきり減ってしまったのは寂しい。
カジカの石焼き(岩見川)・・・木製の桶に水と味噌を入れ、生きたままのカジカを放す。焚き火で焼いた河原の石を数個、桶の中に放り込む。石の熱で桶が沸騰し、ほどなく煮える。実に豪快な料理で、アユやイワナも同様にして石焼きにした。土地の人たちは、石コロからもダシが出るから美味いと自慢する。

カジカの空揚げ…空揚げにすると骨まで火がとおり、丸ごと食べられる。カジカのウロコをとり、内臓を取り除く。水気を切ってから塩を少々ふり、なじむまでしばらくおく。片栗粉をまぶし、油でカリッと揚げる。

カジカの佃煮・・・水煮してから、醤油、砂糖、ミリンで味付けし、骨まで柔らかくなるまで煮詰める。子どもも喜んで食べた。他にカジカ鍋、塩焼き、骨酒など。
サクラマスとヤマメ
 サクラマスとヤマメは、同じ種だが、河川に残ったものがヤマメ、海に降りたものをサクラマスと呼ぶ。サクラマスの遡上は4~6月、融雪や梅雨の増水を機に開始され、産卵期の9月下旬まで河川で過ごす。稀に、秋に遡上し産卵するものもいる。

 海へ下る個体は、銀毛化(スモルト)することによって、パーマークが消え、大高が低く、背びれと尾びれが黒くなるなどの形態的変異が起きる。一般にメスが多く、成熟の早いオスは銀毛化しない個体が多い。つまり、河川残留型のヤマメは、圧倒的にオスが多い。
▼キリギリ・・・古い記録では、桧木内川でとれる銀毛ヤマメを「キリギリ」と呼んでいた。「キリギリ」とは妙な名前だが、アイヌ語で「白い砂」の意味があるという。銀毛ヤマメを白砂ヤマメ・・・と考えれば、なるほどと思う。生まれてから二年後のものを「キリギリ」、三年後になると「ヤマベ(ヤマメ)」と呼んでいたようだ。

 中でも肌色をしている魚は「ヨハダ」と特別な名で呼び、川魚の中で最高に美味しい魚とされた。田沢湖町院内川上流大黒沢でとれるキリギリは、最高の味だったという。ちなみに秋田で「ヤマベ」と言えば、オイカワではなくヤマメのことである。
夏の香魚・・・アユ
 スマートな容姿と淡白な品のいい味から、川魚の女王と呼ばれている鮎。秋に卵から孵化した鮎の仔魚は、流されるように川を下り、河口付近の海で育ち、春になると再び群れをなして故郷の川に戻ってくる。秋田では、今でも夏を告げる味覚として珍重され、釣り以外に刺し網、四つ手網、ヤナ漁などが行われている。もちろん養殖も。旬は夏の太陽が照り出す7月で、スイカのような独特の香りを放つことから「香魚」とも呼ばれている。

▼粕毛村の鮎・・・「この村の奥の鮎は素晴らしく大きく、一尺以上のものは珍しくない。普通のものは下唇が延びて、上唇の外に出ているのに、ここの鮎は反対に上唇が鉤になって下唇を蔽っている。それを村人は南部の鮭の場合のように「鼻曲がり」と称している。」(「秋田郡邑魚譚」昭和15年、武藤鉄城著)

アユの鵜飼い漁・・・鵜飼いと言えば、長良川が有名だが、江戸時代の頃は秋田でも盛んに行われていた。一人一鵜で、川下から石を下げた網を回してアユを追い込み、網の内側に鵜を放してアユを獲らせる。あるいは、網ではなく20mほどの太縄に河原石をたくさん下げて、大勢で川いっぱいに上流に向かって引き、時々鵜を離して獲らせる漁法だった。記録では、明治、大正の頃まで行われていたと記されている。田沢湖町田沢では、イワナを捕獲する「鵜追い」が行われていたという。
△写真左:アユの刺身、写真右:アユのウルカとタタキ(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
アユの刺身(写真左)・・・三枚におろしてから背骨をとり、あばら骨を抜く。胴を6つほどに斜めに切り、頭と尾を添えて千切り大根の上に盛り付ける。

アユのウルカとタタキ(写真右)・・・ウルカとはアユの塩辛のこと。心臓と肝臓を除いた内臓を塩とよく混ぜ合わせ、壷やビンに入れて密封し1年くらい保存したものが旬。タタキは、内臓を取り除いた身と骨を魚包丁で細かくなるまで何度もタタキ、ニンニク味噌混ぜ合わせて食べる。いずれも酒の肴に合う。
△写真左:アユの甘露煮、写真右:アユ寿司(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
アユの甘露煮(写真左)・・・平らな鍋の底に笹の葉を敷き、アユを並べ、中火で4、5時間煮る。柔らかくなったら、砂糖、醤油を加え、煮汁がなくなるまでじっくり煮込む。またアユの田楽も美味い。アユを串に刺して炭火で焼く。これに味噌と砂糖、ミリンを加え、弱火で練り上げた味噌を塗り、再び少し焦げ目がつくまで焼き上げる。

アユ寿司(写真右)・・・内臓を取り除き、塩をきついくらいに入れて2、3日漬ける。米一升のご飯に米麹五合を混ぜ合わせた寿司飯を作る。塩漬けにしたアユをよく洗い食酢に浸してから、軽く水洗いする。樽に笹の葉を敷き、寿司飯を薄く入れ、その上にアユを並べ、細切りにしたニンジンやショウガを適当にふりかけて、交互に漬け込んでいく。一番上に笹の葉を敷き、重石をのせて1ヶ月余り発酵させる。手間が掛かるだけに、これまた絶品。 
サ ケ
 江戸時代は、藩が専用にサケをとるために、雄物川の一部を留川とし、庶民はとることを禁じられていた。明治に入ると、川原にナヤ(魚舎)が建てられ、サケをたくさんとった。そのナヤから買ってきたサケに塩をふり、コモに巻いて、土間の梁木へ荒縄でグルグル巻きにして吊るす。下の囲炉裏で燻製にした。

 大曲の人たちは、晩秋になるとサケ網見物に出掛けた。最大の楽しみは、漁場の魚屋に寄り、新鮮なサケ料理をツマミに一杯やること。ヒズナマス、ハララゴ、白子と大根汁醤油、骨の味噌タタキ、味噌汁、焼き魚など、サケづくしを満喫した。当時「ザッコ博士」と呼ばれた高橋孫太郎さんは、雄物川でサケをとるとき、何とマタギの呪文と同じように唱えごとをしたという。「今日のハツヨ(初鮭)一万五千本/このハナ大エビス大エビス」と二回唱えて、とったサケをたたき殺してとったと記されている。
 かつて雄物川沿いの農家は、堆肥を増産するための草刈舟を持っていた。サケが上る季節になると、この舟を利用してサケを1軒当たり20匹ほど獲った。このサケが獲れだすと、村ではエビス講がはじまり、獲れたてのサケの胸ヒレを神に供えた。農作業を手伝ってもらった人を招いて、サケ料理などで豊作祝いをやった。残りのサケは、腹を割って塩をかませ、樽に漬け重石をして塩鮭を作った。

 角間川では、手の込んだサケのアンかけ料理や皮巻き。角館では、祝儀の最高級品「オカワまき」にサケを使った。豆腐と生サケのすりみ(魚肉)を混ぜたものに、サケの皮でまき、2時間余り蒸して作った。見た目も美しく、大変美味しかったらしい。
ウグイ(ジャコ、ザッコ)
▲群れるウグイ(田沢湖)
 ウグイは、どこの川でもやたら獲れた魚で、県北ではジャコ、県南ではザッコ(雑魚)と呼ばれている。強酸性の田沢湖にも生息しており、環境への適応力が強い。食性は、藻類や水生昆虫、魚の死骸、サケ・マスの卵まで食べる雑食性。
△写真左:ウグイ、写真右:ジャコのくらこあえ(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
冬の雑魚とり「まる漬け法」・・・自生する柳などを切り、6尺くらいの柴丸に縄でしばり、川の淀みや古い川跡などにつける。冬の天気の良い日を見計らい、これを雪の上に引き上げて、この中に入って越冬している雑魚をとる方法。多い家では30個もつけ、冬の間に次々と上げ、新鮮な川魚が乏しい冬の食膳を飾った。

ジャコのくらこあえ(写真右、阿仁川流域)…昔は冬の寒の頃になると、氷の張った川に穴を掘り、そこから川の中に雪を入れてかき回し、動きが鈍くなった魚が川面にあがってくるところを捕まえた。この漁を「ジャガキ」と呼んだ。こうして捕れたジャコを、にんにく味噌や玉ひろこ味噌であえた郷土料理。

春の珍味・ザッコナマス・・・ウグイをコイの洗いのようにつくる。これに生酢をかけ焼き味噌をつけて食べる。ザッコ田楽・・・ウグイを焼き、油で揚げる。これに砂糖の練り味噌をつけて熱いうちに食べる。
米代川のヤツメ(カワヤツメ)
 
 目の後に7つのエラ穴が並び、目が8つあるように見えるからヤツメ(八つ目)と呼ばれている。雪が降り始めると、ヤツメは米代川を遡上する。これをカギに引っ掛けて獲る。能代の「ヤツメかやき」は美味いと評判だ。串に刺して焼き型をつけ、楕円形に切って、ネギ、豆腐を入れて味噌味で食べる。もう一つの料理は、生きたまま斜めに輪切りにし、血だらけのまま皿に盛り、野菜を入れた「味噌かやき」がある。いずれもスタミナ満点の郷土料理である。
ドジョウ
▲水路で捕獲したドジョウ △写真:どじょうの味噌かやき(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
 ドジョウは、田んぼや沼、小川など、身近な水域に生息、昔から日常的に食べられていた淡水魚の代表格。幼い頃、ミミズをエサに釣ったり、網で獲ったりした経験のある人も多いに違いない。水底近くで暮らし、10本のヒゲを使ってエサを探す。小動物や藻類を食べる雑食性で、春に田んぼなどの水たまりで産卵する。皮膚からも呼吸できる凄い能力を持ち、渇水で干からびても泥に潜って生き延びることができる。冬には、もちろん泥の中で冬眠する。

どじょうの味噌かやき(写真右上)…江戸時代のころ、山村では海の生魚を手にすることが少なかったので、どじょうはご馳走に属する料理だった。6~7月頃が旬。夏の暑さで体力が低下している時に食べるどじょう汁は、精のつく食べ物として喜ばれた。まずトジョウを綺麗な水に入れ、泥を吐かせる。ゴボウはササガキにして水にさらし、鍋に入れて煮る。多めの味噌を入れ、数十匹のドジョウを生きたまま鍋に入れる。鍋からドジョウが飛び出さないよう、卵でとして火を止め、素早く蓋をする。数分間蒸してから食べる。

ドジョウのたたき・・・八郎潟周辺の水田地帯では、ドジョウをたたいて、鶏卵や片栗粉で合わせダンゴにし、ショッツルあるいは醤油だしの吸い物にした。ゴリなどの潟魚もたたいて食べた。この他にトジョウの佃煮、唐揚げ、蒲焼など。ドジョウは、「土の香りがする魚料理」で農村地帯を代表する魚だった。
 県南地方ではドジョウ鍋で客をもてなした。米糠を炊って混ぜた土だんごを作り、「ドジョウど」と呼ばれる捕獲用の道具に入れ、用水路の所々に10個ぐらい沈めておく。すると朝までにたくさんのドジョウが入った。これを桶に入れておき、お客さんが来ると、ドジョウ汁や卵とじなどを作ってもてなした。土用の丑の日にもドジョウを食べる習慣があった。小さなドジョウは、塩蒸しにして弁当のおかずにした。
▲「かやき(貝焼き)」とは・・・金属製の鍋がなかった頃は、大きなホタテ貝の貝殻を鍋代わりに使ったことから、鍋料理を「かやき(貝焼き)」と呼んだ。秋田では、汁を少なくして肉や魚、野菜を入れて鍋で煮たものを「○○かやき」と呼んでいる。魚で言えば、クジラかやき、ハタハタかやき、ヤツメ(八つ目ウナギ)かやきなどと呼ぶ。
淡水魚の王様・コイ
 大きな魚体と二つの口ひげに象徴されるように、昔から「淡水魚の王様」と言われている。河川の淵や湖沼など、流れの緩い場所を好む。タニシやカワニナなどの底生動物を砂泥ごと吸い込み、喉にある歯で噛み砕いて食べる。1m以上に成長することも珍しくなく、最大1.5mを超える記録もある。寿命は長く、まれに70~80年に達する。濡れた新聞紙にくるむだけで長時間生きているなど、大変生命力の強い魚である。さらに、秋田では、萩形ダム上流のイワナやヤマメが生息する渓流域でも生息し、環境適応力の強さに驚かされる。秋田では、昔から祝いの膳にコイ料理はつきもので、ため池への放流や養殖も盛んに行われた。

田沢湖の大ゴイ・・・かつて毒水が流入される以前は、体長1.2m以上・化け物と言われた大ゴイが獲れた。余りにも大きいので、魚の肉というよりは獣の肉の味だったと言われる。日本一深い湖で、どうやって大ゴイを獲ったのだろうか?。何と柄の長さ6~7m、重さ7キロもあるヤスで突いて獲ったという。丸木舟に乗って、大ゴイを突けば、舟ごと大ゴイに数mも引っ張られるほどだったという。
 稲刈りが終わった11月頃、農業用ため池では水を落とし「池干し」の行事が行われた。その際、最大の楽しみは、コイを捕獲しコイ料理を楽しむことだった。特に横手市大屋沼のコイは肉づきがよく、骨が柔らかいと評判だった。コイの料理は、アライ、味噌汁、甘煮、頭のタタキなど。頭のタタキは、ナタで細かくタタキ、これにネギを加えてまたタタキ、甘味の入った焼き味噌と一緒に煮ると絶品。

コイの甘煮・・・コイを生きたまま豪快に輪切りにする。それを二時間ほど水煮する。次に砂糖と酒少量を入れ、骨が柔らかくなるまで煮てから醤油を入れる。さらに2、3時間煮詰める。甘煮は、とろ火で長時間かけて煮るのがコツで、保存性も高くなる。テリの良いコイの甘煮は、県南地方の代表的な料理で、行事食には欠かせない料理だった。

コイのアライ、味噌鍋・・・コイの旬は、秋の霜が降りた頃から翌年の大寒まで。コイの刺身を作り、ぬるま湯にくぐらせて身を引き締める。コリコリした歯ざわりと食感は絶品。また寒中に、丸切りにしたコイとネギ、豆腐、セリなどを入れた味噌鍋も美味い。

 この他に、唐揚げ、燻製、ウロコのナマス、保存食としてコイの味噌漬けやカス漬けなど、料理の種類も多く、いかにコイが身近な魚料理として珍重されてきたかが分かる。
淡水魚の女王・ギンブナ
 コイは「淡水魚の王様」と呼ばれるのに対し、ギンブナは「淡水魚の女王」と呼ばれている。湖沼や河川の中下流域、田んぼ周辺のクリークや小川などに生息。一般には「マブナ」と呼ばれている。小動物や水草、藻類を食べる雑食性。オスが全くいなくても子を産むことができる凄い遺伝子をもち、女系一族とも言われる。春になると小川などの浅い所に集まり、産卵に備えて活発にエサを食べる。これを釣り人は「乗っ込みブナ」と呼ぶ。
△写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社)・・・この写真集は干拓前の八郎潟の原風景を記録した写真集。

 写真集の冒頭「追憶」には、次のように記されている。
 「ふるさとの童謡そのままに眠っていたフナが一斉に川といわず、堰といわず所かまわず産卵のために流れに逆らって上り始める。畦といわず、苗代といわず、うずをまいて勢いよく上って来るフナを夢中になって手づかみした経験は、潟を知る人なら誰しもが持つ思い出であろう。

 こんな場面と出くわさなくとも、長雨が続き、川が増水し始める岸の茂みに、棒きれに針金を曲げてつるしただけの即製の釣りざおに面白いように食らいつき、困るほど釣れたものだった。おおよそ60種もの魚介類が生息し、四季折々に私たちの味覚を楽しませてくれた漁法もまた、種類が多く、地形と魚の習性に合った独特の方法がとられ、その一つ一つが潟の風物詩だった。・・・」

 潟の漁師たちが、この豊かなフナの恩恵に授かったかを示すもの、それが「カモフナ供養塔」と刻んだ記念塔だ。湖民たちは、八郎湖のフナのことを「マガモブナ」と呼んだ。それがために「カモフナ」とは、フナのことを意味している。
▲八郎湖産フナのお吸い物
 また「聞き書き 秋田の食事」には「八郎潟を代表する魚は、フナである。雨が三粒降れば、産卵の場所を求めて家々の洗い場の水口まで上ってくる。また、苗代で仕事をしていると、草むらがザワザワと動き出し、子をはらんだ大きなフナの群れが上ってくるのが見えるので、苗代仕事そっちのけで、網ですくっては、ワラで四角に編んだ・・・菜俵にいっぱい入れ、背負って帰ることもしばしばである。ナマズ、ドジョウもよくとれる。」と記されている。

 4月27日、鎮守・諏訪神社の祭りでは、フナやツブは欠かせないもので、お膳は、刺身から煮付け、お吸い物など、ほとんどフナを使った料理をしたという。フナは年中とれたが、旬は春、卵を抱いている時が最高である。
△写真左:フナ、写真右:フナたたきの味噌汁(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
▼琴丘町鹿渡地帯で獲れたフナを「鹿渡ブナ」と呼び、フナの中でも折り紙つきの高級品だったという。荒浜で、泥臭みがなく、20センチ以上のフナは、刺身や吸い物で食べた。これは淡白で絶品だったと記されている。また八竜町の白ブナを焼いた味噌汁は、一度食べたらやめられぬと言われるほど自慢の料理だった。

押しブナ(井川地方)・・・大きいフナを焼き、それを軽く鍋の蓋で押さえ、特製のタレをかけ熱いうちに食べる。この特製のタレをかけるとフナ特有の生臭みが消えるという。生きた旬のフナをつかい、焼けるそばからムシャムシャ食べた。

フナたたきの味噌汁(写真右上)…小ブナを骨がなくなるまで叩き、すり潰したものを「つみれ」にして味噌汁に入れて食べる昔ながらの料理。カルシウム源の骨が丸ごと食べられるところに、昔の人の知恵が生きている。八郎潟では、頭をとって三枚におろし、身だけとってすり鉢に入れ、大根の切り口を利用してつぶした。それからすりこぎでよくすり、卵と片栗粉を入れてよく混ぜ、平たく丸めて味噌汁の煮立ったところに落とす。タタキが浮いたら、汁ごと椀に盛り、刻みネギをはなして食べる。
ナマズ
 大きな頭と二本の口ヒゲ、背ビレはやたら小さく、尻ビレが大きいのが特徴。昼は物陰に潜んでいるが、日暮れ時から活動を始め、底生動物、小魚、カエルまで貪欲に食べる肉食性。ナマズは、トジョウと同じく田んぼとの縁が深い魚で、5月頃田んぼの浅瀬に集まり産卵する。外見に反して大変美味しい魚だ。

▼水田地帯では、柳の枝に短い糸と針を結び、エサをつけて夕方、川岸にさしておく「置き釣り」が盛んに行われた。早朝上げて回ると、毎朝3匹~5匹も掛かっていた。これを串に刺して焼き、囲炉裏の上にあるベンケイに刺して保存した。
タニシ(ツブ)
 秋田では、淡水にすむ巻貝・タニシのことを「ツブ」と呼ぶ。かつては、田んぼや沼などで普通に見られ、貴重なタンパク源だった。ツブの旬は春・・・長い柄の先に小さなタモか杓子をつけて拾った。多い時は3時間くらいで1斗も拾ったという。これを桶に入れて水を換え、泥をはかせてから料理した。
△写真右:つぶの酒みそあえ(「阿仁川流域の郷土料理」建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
ツブの酒味噌あえ・・・ツブは2、3日、水に入れて泥を吐かせる。左の写真のように、一つ一つ石で貝殻を叩き潰して、中の身を取り出す。この作業は大変面倒で根気を要する。剥き身をよく洗い、残った殻を取り除くが、ヘタだけはつけたままにしておく。沸騰した湯に1分ほどサッと茹で、ザルにあげて冷ます。酒で溶いた味噌にツブを混ぜ合わせ、砂糖で味を調えできあがり。手間が掛かるだけに大変美味しい。

ツブの干物(県南地方)・・・ツブを煮てから身を抜き出し、ゴザを広げて乾かす。干物にして冬まで保存した。これを水でもどして煮しめに入れたり、茹で直して、クルミ和えとして食べた。
カラスガイ
 カラスガイは、一週間ほど水に入れ泥を吐かせてから、殻のままで煮る。中身を取り出し、とろ火でかき回しながら、少量の味噌か醤油で味をつけ、豆腐を入れて煮る。またこれにゴマを入れたゴマ和え煮も美味い。さらに、茹で上げたニラを入れると風味が増す。かつては、冬の間イケス箱にカラスガイを入れ、春まで食べていた。
潟の伝統食・・・シラウオ、ワカサギ、イサジャの塩辛
▲八郎湖のワカサギ ▲八郎湖産ワカサギの佃煮
 かつて潟では、うたせ舟でシラウオとワカサギを獲った。秋風が湖面に渡る頃、帆を上げたうたせ舟が点々と八郎潟に浮かんだ。この舟は、風力を利用して帆に風をはらませ、網を引く仕掛けで、適度の風があれば大漁だったという。

 獲れたシラウオやワカサギは、近くの佃煮業者に売ったが、地元の人たちも、刺身、塩蒸し、吸い物、味噌かやきなどで、飽きることなく繰り返し食べた。シラウオの刺身は、生のままショウガを乗せて食べる。吸い物は、豆腐やネギを入れて醤油味にしたが、味噌汁にしても食べた。シラウオの塩辛は、シラウオ一升に塩五合、麹五合を加えて漬け込む。半年も経つと魚が溶けて形がなくなるが、これを調味料として使った貝焼きは美味い。
▲蒸しエビの酢の物 ▲イサジャの塩辛
▼シラウオ(白魚)は、沿岸や八郎潟など汽水域に生息し、産卵のために川を遡上する。白魚というより、奇妙なほどに細長く、体がスケルトンのように内臓や浮き袋まで透けて見える。
▼変わった潟の料理・イサジャの塩辛・・・イサジャはアミの一種で、体長4、5mmと小さく、大変腐りやすい。そこで手軽で保存のきく塩辛を大量に作った。イサジャ一升に塩五合~一升、麹五合の割合で混ぜ、軽く重石して漬け込む。6ヶ月ほどたってから、釜に入れ熱を加え、煮てから保存する。そのままご飯のオカズにするほか、調味料、白菜漬け、なすの漬物などにも利用された。イサジャの塩辛は、日常的に大量に食べた大衆食品だったが、余りに塩分が多く、脳卒中の大きな原因と言われた。この地方で「当たった」と言えば、宝くじではなく、「脳卒中に当たった」ことを意味する言葉だった。
シロウオ
 
シロウオは、シラウオと似ている魚で漢字で書くと、どちらも「白魚」。しかしシラウオはシラウオ科の魚で、シロウオはハゼ科の魚で全く別種だ。それにしても外見だけ見れば、とてもハゼの仲間とは思えない。透明な体をもち、河口などの汽水域に生息。春に産卵のため河川を遡上する。

▼秋田でシロウオ名物と言えば、能代市・米代川河口でとれる「踊り食い」だ。5月上旬、四つ手網からあげたばかりのシロウオを、漆塗りの椀に入れ、卵と醤油を混ぜる。椀の中でピンピンはねるのを丸呑みして食べる。まさに「踊り食い」そのもの。春の旬の味で、何度食べても美味い。
幻の魚・クニマス
 田沢湖畔の古老たちが語るクニマス・・・湖の特産で、体色は全体に黒っぽいが、斑点はない。普段は深さ20~160mもの深いところに生息、産卵期になると浅場に移動した。体形は川マスに似ていて、体長は平均30センチ前後。肉はやや桃色。卵は800粒内外。大きな特徴は、尾のつけ根の部分が幅広いこと。その後、ヒメマスと交配され、原種の面影がなくなったといわれる。漁期は、毎年大寒前後に行われた。

 クニマスは日本一深い田沢湖に生息しているため、その生態は謎が多い。摂氏4度前後を遊泳、冬は深さ30m前後、春と秋は50~70m、夏は何と200mもの深さを泳いでいたとの記録もある。特に珍しいのは、産卵が四季にわたっている点だ。地元の古老は、盛夏の産卵を土用掘り、秋の産卵を木の葉掘り、冬季の産卵を寒掘りと呼んだ。毎年2月から5月に漁が行われ、採卵ふ化が行われた。

 文化年間には、日に数千尾もとれたことが記録に残っている。文化二年には、角館佐竹家から秋田の藩公と江戸にクニマスの塩漬けが送られた。昭和に入ってから、クニマスの燻製を作る講習会が開かれた。しかし、クニマスの皮が堅く、肉が深魚のためか柔らか過ぎて大量に作るまでには至らなかった。

 昭和元年、クニマス3尾が、京大川村教授を経て世界の魚類学の権威・ジョルダン博士に送られた。クニマスの分類学的研究が行われ、同湖のクニマスは、学会未知の新種と断定、オリコンカス・カワムレーと命名された。大島正満博士もジョルダン博士の説を支持し、クニマスは世界に類例を見ない学界の希少種であるとした。
▲玉川温泉の大噴(おおぶけ)
 玉川温泉には、大小さまざまな湧出口があり、中でも「大噴と呼ばれる湧出口からは、98度の温泉が毎分8、400リットルも噴出、一ヶ所からの湧出量は日本一を誇る。その下流は、幅3mの湯の川となって玉川に注いでいる。この温泉は、PH1.2ほどと日本一の強酸性水で、昔から「玉川毒水」と呼ばれ、魚もすめない沈黙の川であった。

 昭和15年1月、電源開発と玉川疎水国営開墾事業により、玉川の酸性水を田沢湖に導水し、毒水を希釈する方法が実施された。当初は一定の効果をあげたものの、田沢湖の酸性化が進み、世界で田沢湖にのみ生息していたクニマスも姿を消してしまった。以来、永遠に見ることも、食べることもできない幻の魚になってしまった。

▼クニマスの味・・・意外にも、海で獲れた魚を食べ慣れている人には余り美味しくなかったという人もいる。というのも脂の出る魚ではなかった。ただしヒメマスの味と遜色なかったという意見が一般的な評価だった。好き嫌いもあるが、かなり美味い魚であった。料理は焼いて醤油で食べるか、クニマスかやきなど。地元では、普段ご飯のおかずとして食べる魚ではなく、お祝いや正月料理などに使われた。獲ったクニマスは、ほとんど売っていたようだ。

▼「クニマス探しキャンペーン」・・・平成7年、絶滅した「クニマス探しキャンペーン」のポスター(田沢湖町観光協会)。西部劇でおなじみの「おたずね者探し」に似せたユニークなポスターで話題を呼んだ。平成9年には賞金を500万円に引き上げたが、確定的な情報はなく、平成10年12月にキャンペーンにピリオドをうった。
番外編 蘇ったハタハタ
▲鰰・ハタハタ・・・「鰰という魚は、冬の空かき曇り、海の上荒れて荒れて、なる神などすれば、喜びて、群れけるぞ。しかるゆえにや、世に、はたはた神という・・・文字の姿も魚と神とは並びたり」(菅江真澄記)

 秋田の初冬、雷が鳴る頃にハタハタが産卵のため沿岸に押し寄せる。これを見た人は、ハタハタは「雷の魚」すなわち「はたたがみうお」に違いないと考えた。いつの間にか、それが「ハタハタ」になったと言われている。漢字では、魚へんに神、または雷と表現され、名前の由来の名残をとどめている。
 「秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ」と秋田音頭にも謡われたハタハタは、江戸時代以前から秋田の食卓になじみの深い魚である。冬の雷が鳴る頃にハタハタが沿岸に集まるので、別名「カミナリウオ」とも呼ばれている。海が荒れる危険な時期にもかかわらず、ハタハタ漁は、慶長年間の文献にもその名が登場し、献上品としても200年間にわたって秋田の特産品を代表してきた。かつては、豊漁が続き、獲れ過ぎで価格が暴落、「箱代にもならない」と言われるほど大漁貧乏が続いた時期もあった。
▲浜に打ち上げられたブリコ(卵塊)の山(男鹿市北浦湯本)・・・ハタハタは、右上の写真のようにブリコをホンダワラ類に大量に産み付ける。荒天で多くのブリコが砂浜に打ち上げられる現象が上左の写真。これはハタハタの接岸量が多くなった証左。

 長い歴史を誇るハタハタ漁だが、開発による海洋環境の変化と乱獲などがたたって激減、大衆魚から一転高級魚になってしまった。この時、過去の大漁は、もはや昔話だと誰もが思った。やむなく、1992年から3年間、自主禁漁に踏み切った。解禁後は、乱獲を避け、資源量の約半分を漁獲可能量として配分してきた。そのかいあって、資源量を着実に増やしてきた。2004年12月、夢にまで見たハタハタの大群が怒涛のように押し寄せてきた。今、漁民も県民も「蘇ったハタハタ」に沸いている。
▲ハタハタは、英語名がサンドフィッシュ。男鹿水族館GAOでは、砂に潜るハタハタを観察できる。

 ハタハタは、11月下旬から12月中旬にかけてやってくる。日増しに冷え込みが厳しくなるから、腐敗する心配がなかった。漁場から山の奥地までくまなく輸送された。江戸時代、藩は庶民の食生活の驕りを戒めたが、ハタハタだけは例外だった。

 余りにも豊漁の時は、生ではなく塩漬けにして送った。海から6、7日もかけて遠い山間奥地へ、塩ハタハタにして売りさばいた。これを「エンチコハタハタ(塩致候ハタハタ)」と呼んだ。ブリコとは、ハタハタの卵の塊のこと。噛むと「ブリブリ」音がする。特に歯が丈夫な人が食べると、オモシロイほど「ブリブリ」・・・といい音がした。

▼魚汁(しょっつる)貝焼き…塩魚汁は、ハタハタ鍋に欠かせない調味料。ハタハタを塩漬けにし、発酵させて作る上澄液で、醤油の代用として用いた。このショッツルこそ、秋田の食を代表する調味料である。かつては、各家庭の主婦の腕前を見せる自慢の味であった。頭と腸、尾をとって、鍋に大量に入れ、かぶるくらいの水を入れて煮る。煮立ってきたら、特製のショッツルで味つけする。毎日、飽きることなく食べた。

 野生鳥獣料理にしても、川魚料理にしても、秋田は何でも「貝焼き」にしてしまう。秋田ほど「貝焼き」を愛する所はないのではないか。
▲写真:メスのハタハタの素焼き。ブリコ(卵)が腹から破れて出るほど大きく、体の半分ほどを占める。このデカクて粘るブリコが旬の味。淡白な魚だけに一度に5~6匹は簡単に食べられる。これをショッツル鍋にしたら、その倍は食べられ、毎日食べても飽きない摩訶不思議な魚でもある。素焼きのハタハタは、砂糖と味噌で和えた甘味噌か醤油をつけて食べる。

▼ハタハタ漁最盛期の料理(男鹿)・・・ハタハタをショッツルで大鍋に煮たり、塩ふりして囲炉裏の炭火の周りに並べ、焼け次第、何十匹でも食べられるようにしておく。しかし、漁に「ミソ」をつけない縁起をかついで、ハタハタの味噌田楽だけは「切り上げ」の日だけ食べた。

▼塩ふり焼き・・・ハタハタの頭、腹わたをとり、塩をふって串にさし、オキのたまった囲炉裏に立てて焼く。焼けしだい、串を抜いて食べる。

▼でんがく、味噌味焼き・・・ハタハタを串刺しにして素焼きにし、表面が乾いた頃、サンショウ味噌を塗り、いくぶん焦げ目がつくくらいまで焼いて食べる。もう一つの味噌味焼きは、頭と腸をとり、味噌をからめて一晩おく。翌日、味噌を手でしごいて落とし、串に刺して焼く。

▼しょっつる煮、味噌煮・・・ハタハタを煮る時は、大鍋にたくさん煮るのが味を良くする方法。頭と腹わた、尾をとって鍋に入れ、かぶるくらいの水を入れて、煮たってきたら、しょっつるか味噌で味付けする。汁とともに、何杯でもお代わりして食べる。

▼押しブリコ・・・ハタハタの腹をしぼってブリコ(魚卵)を出し、浅い木箱に並べ、表面をならして、そのまま海水の入った桶に30分ほどつけ、一枚の板のように固くする。これをすだれの上に並べて半日ほどおき、ざっと乾かす。
 この押しブリコを何枚も作っておき、大根、ニンジンのナマスにちぎって入れ、ブリコナマスにする。またノビルの根を干しておいたものをすり鉢でつぶし、味噌を加えてよくすり、これで和える。ネギを刻んで入れたブリコの酢味噌和えも美味い。

▼玉ブリコ・・・藻に産みつけられ固くなったブリコが波打ち際に寄せられているのをひろってきて、ミゴ縄に通して数珠のようにしたものを「玉ブリコ」という。これを、そのまま下げてとっておき、押しブリコと同じように使う。

▼ハタハタ白子・・・白子だけを小鍋に入れ、しょっつるや味噌で煮て食べる。また、白子に塩を入れて漬けておき、なれてきたら、麹を加えて時々かき混ぜ、塩辛にして、酒の肴や熱いご飯のおかずにして食べる。

▼干しハタハタの昆布巻き・・・大量にとれたハタハタは、一部を目刺しにし、浜風を利用して乾燥させ、とっておく。これをさっとあぶってそのまま食べることもある。一般には、干したハタハタを水に浸けてもどしてから、細目昆布でクルクルと巻き、細くさいた昆布で結び、鍋に並べてかぶるくらい水を入れ、やわらかくなるまでゆっくり煮て、味噌のたまりで味付けする。

▼ハタハタの水あぶり・・・生のハタハタを串に刺して焼き、そのままベンケイに刺して保存する。これを「ハタハタの水あぶり」という。調理は、水にもどし、フキ、ニンジン、じゃがいもなどと煮付け、タマリで味付けする。年取りのお膳にはなくてはならないものの一つ。

▼ハタハタ寿司・・・木箱一つ分のハタハタに、酢4合、米一升、麹一升、塩4合くらいが標準。塩水で洗いヌメリをとる。頭、内臓、尾を切り取り、薄塩で3日間下漬けにする。これを水洗いし、酢に二日間ほど浸す。炊いたご飯と麹をよくかき混ぜ、冷ます。これに少量の塩と砂糖を加えてかき回し二日間ほどおく。酢に入れたハタハタを水洗いし、一匹を3~4つにぶつ切りにする。

 ニンジンやカブを薄く花形や短冊に切る。樽に笹の葉を敷き、ハタハタを並べ、ご飯、野菜、ハタハタと交互に重ねて漬け込む。笹の葉を上蓋の下に敷き、材料と同じくらいの重さの重石を載せ、漬け汁が上がってきたら、重石を半分にして保存する。約1ヶ月ほどで食べられる。ハタハタの飯寿司は、骨まで食べられる。こうした手間を惜しまず、丹精込めて作ったハタハタ寿司は、どこの家でも正月から冬の間中食べた。

▼ハタハタの保存法・・・塩漬け、麹漬け、押しブリコ、白子塩辛、ショッツル、ハタハタ寿司、干し魚など、保存法も多様で、冬の間中食べた。ハタハタは、厳しい冬の到来とともに、大群となって押し寄せてきただけに、雪国秋田にとっては、これ以上ないご馳走であり、「冬魚の王様」だった。
参 考 文 献
「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)
「阿仁川流域の郷土料理」(建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
「秋田民俗覚書」(長山幹丸著、北方風土社)
日本の食生活全集5「聞き書 秋田の食事」(農文協)
「マタギ 森と狩人の記録」(田口洋美著、慶友社)
「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫著、農山漁村文化協会)
「いなかの食卓 秋田だより」(相場栄著、文化出版局)
「淡水魚カタログ」(森文俊、秋山信彦、永岡書店)
「淡水魚あきた読本」(杉山秀樹著、無明舎出版)
「クニマス百科」(杉山秀樹著、秋田魁新報社)
「山村の八十年 マタギの里」(越前谷武左衛門著)
「秋田郡邑魚譚」(昭和15年、武藤鉄城著)
写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社)
「ハタハタの海」(八柳吉彦著、秋田魁新報社)
「県の魚 ハタハタ(平成14年12月6日制定)」(秋田県)

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