米づくりの村 母の面影 田んぼの学校 過酷な労働 実りの秋
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Severe labor
 雪国では、一年のうち七ヶ月しか田んぼで働けない。
 その間の労働は、集約的かつ過酷を極める。

 田植えは女の仕事とされているが、
 かがみこんだ姿勢で1日1キロも歩かなければならない。
 除草には、反当り35時間の労働が必要とされた。
 村人たちの協力が必要なのは言うまでもないが、家畜も大いに手助けをしてくれた。

女性にとって、もっともつらいモッコ担ぎ

戦後の厳しく貧しい時代を、それぞれのかたちで生き抜いた女性たち。
聖と俗を合わせ持って、野に生きる命は、たくましく美しい。

 米づくりの村は、子供からお年寄りまで一家総出、果ては村ぐるみでの共同作業で行われた。農村文化の源と言うべき相互扶助の精神は、米づくりを通して苦楽を分かち合う作業の中で培われた。今では、ほのぼのとした懐かしい光景だ。

春の農作業に備えて、ワラ仕事が続く。

 生まれおちて以来、昭和30年頃まで、ワラを抜きにした生活は考えることができなかった。生まれる時はワラの寝床であったし、乳児の時は、ワラのエヅメに入れられ、幼少の頃は、ワラ草履・ワラ靴などの履きもの、遊びは、縄・サンダワラ・ワラ棒などで、食物の包みは納豆をはじめ、魚・餅などもワラのご厄介になっていたし、神様のお祭りやお葬式、はては小正月の天筆やき等、年から年中の生活のなかにワラは生きていた。(「わらと生活」後松州造)

牛とともに、田んぼの土を耕す。家畜も家族の一員であった。写真左に子牛が野放しになっているが、牛も親子の絆が太く、逃走の心配はなかった。 手動のポンプで堰から田んぼに水を入れているところ。
山に見る農事暦は、農民の長い経験により自然現象から季節を知り、それを農作業に利用した。
仙北地方では、奥羽山脈の北側にある谷の雪が、老人の種をまく姿になると、「種まきオヤジ」といって「種マキオヤジにまけずに種を蒔け」と言っている。特に、このオヤジが腰をのして種をまいている姿の年は、水が豊かで雪の多い年と言われている。
 田植えの主役はショトメ(早乙女)と呼ばれる女たちで、一番良い野良着を用意して着るのが習慣とされ、嫁入りには必ず新調して持参したものであった。田植え姿は美しく、賑やかで女たちのハレの労働であった。

 田植えがすむと手伝い人全部を招待して慰労の宴をはる。この席では、ショトメを上席にすえて大いに労をねぎらう。田植えにかけた飲み食いは、穂になってあがってくるといわれ、サナブリの出費は惜しまなかった。

湿田の田植えのつらさは、想像以上のもの。 除草に費やす時間は、10a当り35時間。泥と汗にまみれて、手で雑草をむしりとる。田一面、人手のかからないところがない。こうした限りない心づかいと非常な労苦が稲を育てていく。
洪水で田んぼに流れ込んだ砂礫の下から稲を掘り出している母と子、丹精込めて育てた米が・・・・。
立春からかぞえて二百十日、二十日がちょうど9月の上・中旬にあたり、昔から農作物に大きな被害を与えるので農家の厄日とされていた。そのため、これに因んだ俗信も多い。
「深山にすむ鳥が里近くに飛び来るのは暴風雨の前兆」「クモが忙しくはい廻るのは大風の前兆」「屋根の棟の両端に木鎌、古鎌などを付けておけば風除けになる」・・・これらの俗信は、実りの秋を無事に過ぎたいという百姓の祈りをあらわしている。

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